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「軽々とめぐり歩く」

2009-09-04 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 9月 4日(金)19時21分14秒

山本義隆氏『十六世紀文化革命』の2巻を読み進めて残りが50ページほどになりましたが、なんだか読み終えるのが惜しいような気持ちです。
第9章「16世紀ヨーロッパの言語革命」は迫力ある記述が静かに続きますが、次の一文は妙に私の心を騒がせます。

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 このようなヨーロッパの知識層における知の秘匿体質ともいうべきものの根っこは古代にまで遡る。古来ヨーロッパにおいては、神から与えられた真理は不心得な者の手に入らぬようにみだりに公開してはならない、という観念が広くゆき渡っていた。ピュタゴラスの弟子リュシスは、哲学を公にすることは師のピュタゴラスが禁じたと伝えている。同様に、アレクサンドル・コイレによれば「プラトンの哲学的教えというものは選ばれた少数者にだけ与えられるという、奥義とも言うべき性格をいくぶんもっている」のである。実際プラトンは対話篇『パイドロス』において「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人のところであろうとも、ぜんぜん不適当な人のところであろうと、おかまいなしに、軽々とめぐり歩く。そしてぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない」との危惧をソクラテスの口から語らせている(275DE)。そして三世紀の教父オリゲネスが「神的な事柄は人間にはいくらか隠された形で知らされる。人が不信仰でふさわしくない状態にあればあるほど、ますます隠される」と語っているように、この点はキリスト教においても変わりがない。(p571-2)
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最近、ウィキペディアのことをいろいろ考えている私には、このプラトンの「危惧」は「希望」のように感じられます。
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