学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その4)

2020-11-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月24日(火)11時02分45秒

※『大日本史料』を見ないで書いたので、最初の方で「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと頓珍漢なことを述べていますが、事情は次の投稿で説明しています。

『難太平記』評価の一環として、今川家関係者が青野原合戦でどのように描かれているかをざっと見るつもりだったのですが、成良親王はなかなか興味深い存在なので、もう少し寄り道を続けます。
私が成良親王を調べるきっかけとなったのは桃崎有一郎氏の『室町の覇者足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたのか』(ちくま新書、2020)です。

-------
足利一門大名に丸投げして創立された室町幕府では、南北朝の分断などに後押しされて一門大名の自立心が強すぎ、将軍の権力が確立できなかった。この事態を打開するために、奇策に打って出たのが足利義満である。彼は朝廷儀礼の奥義を極め、恫喝とジョークを駆使して朝廷を支配し、さらには天皇までも翻弄する。朝廷と幕府両方の頂点に立つ「室町殿」という新たな地位を生み出し、中世最大の実権を握った。しかし、常軌を逸した彼の構想は本人の死により道半ばとなり、息子たちが違う形で完成させてゆく。室町幕府の誕生から義満没後の室町殿の完成形までを見通して、足利氏最盛期の核心を描き出す。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072795/

同書には、

-------
成良親王は後に征夷大将軍になるが、それは約二年後に、京都に送り返された後である。(p26)

直義を救うため、尊氏は出陣の許可と征夷大将軍への任命を後醍醐に要請した。しかし後醍醐は却下し、京都に戻った成良親王を征夷大将軍にした。一〇歳の彼に将軍など務まらないが、「尊氏だけには与えない」というあてつけだ。(同)
-------

という指摘があったので出典を探したのですが、なかなか見つからず、『続史愚抄』に何か出ているかもと思って確認したところ、前回投稿で紹介したような記述があり、桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です。
『続史愚抄』は柳原紀光(1746~1800)を編者とする非常に詳細な年表のようなもので、本格的に成良親王を研究するには不充分ですが、その人生を概観するには便利ですね。
また、近世の公家の著作ですから、北朝を正統とする視角が一貫していて、北朝から見るとこの出来事はこんな風に見えるのか、といった新鮮な驚きを感じることもできます。

続史愚抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%B2%E6%84%9A%E6%8A%84

さて、前回投稿と若干重複しますが、『続史愚抄』によれば、建武元年(1334)十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」とのことで、後醍醐の意向で僅か九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
これがいつまで続くかというと、建武三年(1336)二月七日までですね。
この日、後醍醐は尊氏が摂津打出・豊島河原で正成・義貞に敗れたのを確認した後、「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」ということで、成良の征夷大将軍在任期間は一年二か月ほどとなります。
尊氏・直義の西走で後醍醐は一安心だったでしょうが、この後、九州へ逃げた足利軍は驚異の巻き返しに成功し、五月には湊川で楠木正成・新田義貞を破ります。
そして八月に尊氏の奏請で光明天皇が践祚し、十月に後醍醐が尊氏と和睦、十一月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」とのことで、光明天皇の皇太子に阿野廉子を母とする「新院」後醍醐の皇子、「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
まあ、北朝・南朝のねじれに加え、「前征夷大将軍」が天皇となる可能性が現実味を帯びていた訳ですから、何とも異例な人事との印象は否めず、尊氏・直義のあまりの強引さに不快感を抱いたのは必ずしも北朝関係者に限られないのではないか、と思われます。
さて、約九か月間のブランクを経て皇太子となった成良がいつまでその地位にあったかというと、建武四年(1337)四月一日までであり、その在任期間は四か月半ほどですね。
この間の事情を『続史愚抄』で概観すると、成良が皇太子となった翌月の十二月二十一日に「今夜。新院<後醍醐院。>窃帯三種神器。自花山院第幸大和路。自稲荷辺有赤雲燭幸路。侍従忠房及勾当内侍某等供奉云。」(『続史愚抄』)という事態となり、後醍醐と尊氏の束の間の和睦はあっさり破れます。
翌建武四年(1337)三月六日、「越前金崎城陥。執前坊恒良親王。中務卿尊良親王<南主第一皇子。母贈従三位藤原朝臣為子。御子左前大納言入道為世女。>自殺。<廿七歳云。未詳。>前大膳大夫行房朝臣。前越後守源義顕<前左中将義貞朝臣子。>已下数百人死之。」、そして同日「前坊恒良親王自越前入洛。<或作七日。不取。>故中務卿尊良親王首級到京師。僧智曜<後号疎石。字夢窓。>葬禅林寺云。」ということで、金崎城陥落、尊良親王自殺、前皇太子恒良親王帰洛との展開となります。
そして四月一日、「廃皇太子成良親王。<南主皇子。十二歳。或作去年十二月。謬矣。>而与前坊恒良親王幽入道前右大臣<家定。>花山院第。此日。内大臣<経通。>罷皇太子傅。<春宮坊補任、公卿補任、諸家伝、紹運録、類本太平記、或記<南>」とあります。
「南主皇子」の成良親王(十二歳)が皇太子を廃され、前皇太子で越前金崎城から連れ戻された恒良親王と一緒に花山院家定邸に幽閉された、とのことですが、同日、皇太子傅・一条経通が罷免されているので、廃皇太子は事実と思われます。
しかし、成良が恒良と一緒に花山院邸に幽閉された、という点はどうなのか。
この出典が『太平記』だけであればどうにも疑わしく、もう少し調べる必要がありそうです。

一条経通(1317~65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E7%B5%8C%E9%80%9A
花山院家定(1283~1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E5%AE%9A
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西源院本『太平記』に描かれ... | トップ | 西源院本『太平記』に描かれ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『太平記』と『難太平記』」カテゴリの最新記事