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北山に集う人々

2008-09-17 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 9月17日(水)23時23分13秒

>筆綾丸さん
「演出」「文化戦略」「シンボル操作」「世論誘導」「デモンストレーション」「渇望」「欲望」「広告塔」といった語彙を多用する松岡氏の文章は、電通や博報堂のプレゼン資料みたいですね。
私は決してこういう華やかな文章が嫌いではなく、読んでいてけっこう面白いなと思うのですが、そうかといって松岡氏が到達した認識を基礎に、更にその上に何かを積み上げて行きたい、などとはとても思えないですね。
あまりに不安定で怖い、<花>はあるけど実がない世界です。
松岡氏は研究対象のみならず頭の中も夢幻能なのではないか、といった幻想もありえるかという気がします。

さて、先に引用した松岡氏の発言(「このあたりは義満のうまいところだと思います」)に続いて、桜井英治氏が次のように発言されています。

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桜井  『源氏物語』との関係はまったく同感です。天皇未経験者の上皇待遇というのは後高倉院ぐらいで、あとは貞成親王=後崇光院がいますが、人臣に対する上皇待遇は光源氏しかありません。だから上皇待遇の先例は光源氏ではないかと本のなかでも書きましたが、いったんそういうふうに考え始めると、義満はそれを意識して行動していたとしか思えなくなるんですね(笑)。小川さんの『南北朝の宮廷誌』(臨川書院、二〇〇三年)を読むと、義満だけではなくて二条良基なども含めて、『源氏物語』の世界との不思議な符合があって、もちろん明言はしないけれども、義満およびその周辺が、ある時点で光源氏との類似性を意識し始めたと思います。いつ頃からそれを意識し始めたのでしょうか。
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そこで、小川剛生氏の『南北朝の宮廷誌』を購入してみたら、以下の記述がありました。(219p以下)

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 先日、ある中世史研究者の方と話をしていた時、足利義満が『源氏物語』を読んでいたという記録はないか、と尋ねられました。まあ義満が熱中したという明徴はないけれど、あの頃なら梗概書がたくさんありますし、『河海抄』の著者もすぐ側にいますから筋くらいは熟知していたのでは、と答えると、政治的な軌跡を眺めると義満の脳裡には光源氏の姿が浮かんでいたのではないか、周囲の人たちも物語の登場人物そのままではないか、といくつかの例を挙げられました。
 なるほど、光源氏は澪標巻で右大将から内大臣に昇進して権力を掌握し、やがて冷泉帝の実父として(それは絶対の秘密でしたが)太政天皇に准ぜられて六条院という院号を奉られるのですが、これは義満が後小松天皇の父として法皇に准ぜられる過程によく一致します。同じく後小松の准母として女院となった妻の北山院康子(裏松資康の女)は紫の上に対置されます。夫より年長の正妻がいること(義満の正妻は康子の伯母にあたる業子で、義満より七歳上で早く寵を失った)、実子がいないこと、北山に縁が深いことなど、紫の上と奇妙に共通する点が多いのです。
 その驥尾に附していえば、もはやただのこじつけになってしまいますが、二条良基は、光源氏の後見で岳父でもあった摂政太政大臣に相当するようです。(下略)
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「ある中世史研究者」とは桜井英治氏ですかね。
そうであれば、「北山に縁が深いことなど」は桜井氏の認識であり、また小川剛生氏もその認識を共通にしているようですね。
紫の上は確かに「北山」と縁が深い人物ですが、ここでは文脈から明らかに北山=西園寺=金閣寺となっていますので、桜井英治氏も小川剛生氏も今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」を読んで、その内容に納得したということですかね。
結局、「足利義満の文化戦略」に参加している四人全てが今西祐一郎説の賛同者となりそうですね。
うーむ。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「鹿ー公家様花押」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4742
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