学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

江戸川石油

2009-03-24 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月24日(火)22時13分7秒  

『大協石油40年史』(大協石油株式会社社史編さん委員会、昭和55年)を見ると、江戸川石油との合併について、次のような記事がありました。(p42以下)
記事自体はかなり詳しいのですが、江戸川石油創立者の網野善右衛門氏は会社を大日本麦酒に売却し、その後で大協石油との合併がなされたとのことなので、残念ながら網野善右衛門氏の時代の様子は殆どわからないですね。
なお、文中に「江戸川石油は、大正5年に甲州の網野善右衛門が江戸川区東長島町に製油所を建設して以来」とありますが、これは明らかに昭和5年の誤りでしょうね。

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第1章 創業のころ
 第5節 江戸川石油との合同

 昭和16年8月2日、当社は、本社を麹町区丸の内の丸ビルから京橋区銀座西3丁目1番地(旧読売新聞社の裏隣)に移転した。移転後間もない8月12日、当社は本社で臨時株主総会を開催して江戸川石油との合同を付議し、これを承認可決した。その合同に至る経緯は次のとおりであった。
 この合同問題は、石油業法に基づいて商工省燃料局があっせんしたもので、業法に定める企業規模に達していない当社と江戸川石油を合同させ、業法に定める規模に拡大させることを目的としていた。
 江戸川石油は、大正5年に甲州の網野善右衛門が江戸川区東長島町に製油所を建設して以来、ライジングサンから購入するミリ、タラカン重油を原料油として機械油を精製している製油会社であったが、当社が創立された昭和14年ごろには、大日本麦酒がこれを買収して同社社長高橋竜太郎の従兄弟にあたる高橋真男が経営していた。本社も深川区常盤町1丁目から京橋区京橋3丁目1番地の第一相互館4階に移転しており、当社の本社京橋分室とは目と鼻の先にあった。そこで、江戸川石油の販売課長金子美喜は、機械油の売込みで頻繁に京橋分室(以前は斉藤製油所東京営業所)に出入りしていたので、当社とは昵懇の間柄であった。
 商工省燃料局の合同あっせんによって、両者は合同委員会を設け、当社からは山岸清剛、鈴木吉之助、星野竜二、高橋健三郎、石崎重郎が、江戸川石油からは野田武夫、金子美喜が委員に選出されたが、実際に交渉をすすめたのは、石崎重郎、金子美喜の両名であった。
 江戸川石油は当時、名古屋地区への進出を図っており、すでに昭和15年10月1日付で愛知県西春日井郡新川町大字西堀江に製油工場をもつ牛田石油株式会社(社長牛田裕逸、機械油生産能力600缶、これは1日当たり約11kℓに当たる)を買収して名古屋地区進出の足掛かりとしていたため、四日市に製油所建設計画をもつ当社との合併に乗り気であったが、一方の当社側には、問題が残っていた。
 そこで江戸川石油の専務取締役野田武夫は新潟に赴いて、当社取締役石橋清助に協力を要請した。
 合同問題は、この要請を受けた石橋清助の努力によってようやく役員会全体の合意を取り付けるに至ったのであった。
 以上の経緯からみると、江戸川石油との合同は、野田武夫が推進し、石橋清助がこれを支持したため、斉藤英二、山岸清剛、鈴木吉之助以下の役員たちも同意したということになる。
 こうして難航した江戸川石油との合同は、当社が江戸川石油を吸収するということで落着をみ、新資本金は720万円(払込み540万円)となった。江戸川石油の資本金は牛田石油(資本金50万円)の買収後も150万円にすぎなかったが、資産内容から評価してそれを220万円としたのである。
 昭和16年10月15日、当社は、本社で臨時株主総会を開催し、取締役に高橋真男、野田武夫、中村市之助を、監査役に高橋誠一を選出し、つづく取締役会で高橋真男を取締役会長に、野田武夫を専務取締役に選任した。また、11月7日には、8月14日付で商工省に提出していた合同申請が正式に許可された。
 当社と江戸川石油との合同が実現する2カ月前には、日本石油と小倉石油の大型合併が完了しており、翌17年には丸善石油グループ、昭和石油グループが相次いで合併を完成させた。その経緯を図示すると右図のとおりであり、これらの合併によってわが国の石油会社は8社に統合され、商工省は昭和9年以来の集約化の目的を達したのであった。
 その8社とは、日本石油、三菱石油、東亜燃料工業、日本鉱業(昭和14年8月早山石油船川製油所を買収)、興亜石油(昭和16年5月東洋商工石油を興亜石油に改称)、丸善石油、昭和石油および当社である(四国の太陽石油のみが8大石油会社に集中合併されずに存続した地方製油業者の唯一の事例であった)。
 これらの集中合併は、いずれも企業それぞれの内部的必然性から出た自発的行動であったかどうかについては疑問が残るが、しかしバスに乗り遅れた秋田の製油業者などの結末をみると、結果的には、政府の要請にいち早く応えて早期合併を果たしたことは、新潟の8製油業者たちにとっても成功であったし、江戸川石油にしても最後のチャンスをつかんだとみてよいだろう。
 江戸川石油との合同を完了した結果、当社原料油蒸留能力は1日当たり147kℓとなった。当時の石油8社の原油および原料油蒸留能力の状況は次の通りであった。
(図表省略)
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