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あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その4)

2021-11-15 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月15日(月)12時54分13秒

続きです。(p20)

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 一方で、ヨーロッパ近世史では、従来の議論が近代国民国家の成立を予定調和的に捉えることについて、批判する動きがみられる。すなわち、近世ヨーロッパにおける諸国家は、国民国家とはまったく異なる特質を有しているものが少なくない、というのである。ひとつの国家が、複数の王国によって構成されているが、連邦制とは異なり、ひとりの君主がすべての王国の王位を兼ねている。しかし、王国ごとに、君主が行使できる王権は異なるというもので、形の異なる岩がくっついたような国家、という意味で、「礫岩のような国家」論などと呼ばれる。
 筆者はまだこの議論をトレースし始めたに過ぎないから、「礫岩のような国家」論の位置づけを論ずる立場にはない。しかし、ここで提示されている問題意識は、日本の戦国大名研究の有する問題点を的確に突いている。
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私も「礫岩のような国家」論など全く「トレース」していませんが、ネットで少し検索したところ、中澤達哉氏の「シンポジウム趣旨説明:礫岩国家の三点測量」(早稲田大学総合研究機構・早稲田大学高等研究所国際シンポジウム、2014)に以下のような説明があります。

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〔 シンポジウム趣旨説明 〕
             中澤達哉(福井大学)
 近年のヨーロッパ史研究では、「近代国家」の前史としての「近世国家」像が批判され、近世ヨーロッパの各地で保たれていた独特な政治秩序の多様な姿が議論の対象となっています。ブリテンやスペインなどを事例に検討されてきた複合国家(composite state)論や複合王政(composite monarchy)論は、こうした議論の一端に位置付けられるものであり、中世後期に独特な政治体系と近代以降の国家経営との間のミッシングリンクを明らかにする分析枠として注目されています。複合国家を構成する様々な地域は戦争などの情況を背景に生み出される政治的な磁場によって引力や斥力を帯び、複合国家は不断にその編成を替えていきます。
【中略】
 こうした「複合国家」「複合王政」論の延長線上に位置するのが、「礫岩国家」(conglomerate state)論です。「礫岩国家」とは、スウェーデンの歴史家H・グスタフソン(H.Gustafsson)がおもに提唱した概念です。彼によれば、近世国家の君主の支配領域に所属する各地域は、中世以来の伝統的な地域独自の法・権利・行政制度を根拠に、君主に対して地域独特の接合関係をもって礫岩のように集合していました。Conglomerateとは「礫」を含む堆積岩を意味する地質学用語であり、非均質で可塑性のある集合体ということになります。グスタフソンの貢献は、ケーニヒスバーガおよびエリオットの複合国家・複合王政論がやや静態的であるのに対して、服属地域の「組替」「離脱」のほか、国家の「解体」を視野に入れた考察を行い、動態的な国家論を提示したことです。礫岩国家論は君主とこれに服属する複数の地域(または領邦)との間に、集合のあり方に関する複数の複雑な交渉が常に存在することを重視しています。それゆえ、礫岩国家的編成は、戦争など国家の存亡にかかわるような危機的な非常事態に明示的に現れるのです。つまり、礫岩国家論は、危機の際に復古であれ連合であれ統合であれ解体であれ、どういう形態をとるにせよ、常に服属地域(礫)が組替えられたり離脱したり変形することを前提としています。この服属地域(礫)の可塑性・可変性こそ礫岩国家の特徴といえます。


「中澤達哉(福井大学)」とありますが、中澤氏は2015年に東海大学に移り、更に2018年から早稲田大学の「文学学術院文化構想学部教授」だそうですね。
確か歴史学研究会の事務局長もされているはずです。


さて、「礫岩国家論は君主とこれに服属する複数の地域(または領邦)との間に、集合のあり方に関する複数の複雑な交渉が常に存在することを重視しています」の一例が丸島氏の言われる「ひとつの国家が、複数の王国によって構成されているが、連邦制とは異なり、ひとりの君主がすべての王国の王位を兼ねている。しかし、王国ごとに、君主が行使できる王権は異なるというもの」なのでしょうが、日本の戦国大名や国衆、そして近世の藩がここまで複雑かというと、そうでもないですね。
戦国大名の武田家と上杉家の君主が同一人物といった事態は戦国時代にはおよそあり得なかったですし、近世に入っても薩摩藩の君主が長州藩の君主を兼ねるといった事態は日本では全くなかった訳です。
加賀前田藩のように富山藩・大聖寺藩・七日市藩のような支藩を抱える巨大な藩であっても、藩が違えば君主も違います。
何故に日本が「礫岩国家論」の対象とする西欧の地域のような複雑さを持たなかったかというと、それは山田康弘氏の議論を検討した際に確認したように、「大名以下列島に住まう人びとは、古代以来「日本国」という一つの国制のもとに同じ歴史を体験してきたという、いわば歴史的回想を共有して」いたからですね。
足利将軍の置かれた「戦国大名ソサイエティ」(仮称)は「人種・民族・言語・宗教・歴史・文化・慣習といったあらゆる基本的部分を【共通】にしている」訳で、「Conglomerate」、即ち「「礫」を含む堆積岩を意味する地質学用語」に喩えることができる「非均質で可塑性のある集合体」とまでは言えなさそうです。

あなたの「国家」はどこから?─山田康弘氏の場合(その5)

新田一郎氏ならば、「礫岩」は「濫喩」ではなかろうか、と言われるかもしれないですね。

『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その9)
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