学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その2)

2018-02-10 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月10日(土)14時41分19秒

続きです。(『六代勝事記・五代帝王物語』、p151以下)

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 さて亀山殿にては、御心地も次第に弱く思食さるれば、御祈どもいとど数を尽す。御方々にも臣下も、われ劣らじとせられしかども、又大事にならせおはしませば、つひの所に兼て思食れて作おかれたる寿量院の御所へ、二月七日入せ御座す。京御所より御出の有し迄は、猶もし立帰る御事もやと覚しに、今は限の御ゆきなれば、申もおろか也。今日よりは伺候の公卿・殿上人も人数を定られて、御点(の)人々少々の外は参りよらねば、いとどかきくれてこそ思あはれつらめ。実伊法印<南松院僧正>・浄金剛院長(老)<覚道上人>此二人をめされて、臨終の御沙汰の外他事なし。
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『とはずがたり』では「御善知識には経海僧正、また往生院の長老参りて」とあり、『五代帝王物語』では「実伊法印<南松院僧正>・浄金剛院長(老)<覚道上人>」となっていて、臨終に侍した高僧の組み合わせが違っていますが、『増鏡』では二月七日、寿量院に移った後に、「ここへはおぼろげの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて法の道ならではのたまう事もなし」とした上で、十七日の臨終に際して「経海僧正・往生院の聖など参りて」とあって、『とはずがたり』と『五代帝王物語』を総合した形で三人の高僧が登場しています。

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 十四五日の程はことに時を待御事にて有しに、十五日の暁より、武家ざま何とやらむ物忩なる様に聞えし程に、今日浄金剛院の涅槃講なれば、恒例の事なるうへ、今年は釈尊入滅の支干に当たれば、殊に折節もあはれをとりそへて、僧衆も袖をしぼりて行ふ程に、六波羅に既に合戦すると云程ぞある、やがて火いできて、煙おびたたしくみゆれば、いとど世中かきくれて、何と成やらむと覚る程に、門守護の武士共一人もなし。皆はせ向ふ。京中おびたたしきくれにてぞありし。去年十二月に関東より左近大夫将監義宗上て六波羅の北方にあれば、もとの式部大輔はもとより南方にあり。此暁鎌倉より早馬つきて後、なにとなくひしめきて、人もいたく心得ざりけるに、南方の時輔を討べしとて押寄ければ、とりあへぬありさまなりけれども、思程は戦たりけるやらむ、はては火をかけて、多の者共或は打死、或焼死もありけり。さしも人のおぢ恐てありしに、纔に一時の中にかく成ぬる事、武家のならひ皆かくぞ有とも、殊にはかなき夢とみえて、あじきなく覚侍。十六日、猶余波もあるべしとさまざまきこえしかば、さならぬ月日ぞ多に、此折ふしいとどいかにあるべしとも覚えず。我も人もあきれてのみ有しに、六波羅より使をまゐらせて、謀叛のきこえ候つるをめしとりて、別事なき由を申たれば、すこしおちゐたる心地してぞ有し。
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『五代帝王物語』で一番興味深いのは二月騒動がかなり詳しく描かれている点です。
最初に六波羅で合戦が起きたとの情報が入り、ついで火事が遠望され、亀山殿守護の武士が一人もいなくなります。
去年十二月に赤橋義宗が上京して六波羅探題北方となっていたが、十五日早暁、鎌倉から北方に早馬が到着して慌ただしい動きが始まり、北方の軍勢が南方・北条時輔に攻撃を仕掛け、時輔側も思う存分戦ったようで、最後には火がかけられて大勢が討死・焼死したという具合に、だんだん事情が判明してきます。
それでも翌十六日、まだ何かありそうだと不安に思っていたところに六波羅から使者が来て、謀叛を起こそうとした者を召し取って騒動は終息したと報告したので、人々は少し落ち着いた気持ちになった、ということで、このあたりは亀山殿にいた人々の心理の動きを時系列に沿って極めて臨場感溢れる筆致で描いており、筆者は京御所からの出発を見送っただけの人ではなく、亀山殿にも滞在して一部始終を実際に体験した人のような感じがします。
なお、『とはずがたり』には九日に両六波羅が後嵯峨法皇のお見舞いに来たとの記述がありますが、この指摘は『五代帝王物語』にはありません。
そして『増鏡』は二月騒動を全く無視しています。

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 去程に、十七日卯の時に、法皇つひに御事きれさせ給ふ。後の御事ども大宮院の御計なるうへ、建久の守覚法親王の例に任せて、円満院の宮御沙汰あり。前左府(に)仰合られて行はる。奉行は、是も建久の例を守れて、前左府・帥中納言<経任卿>・左中弁<親朝>、建久には花山右府<兼雅公>・民部卿<経房卿>・左中弁<棟範朝臣>也。親朝朝臣、棟範朝臣が余流ならねども、時に中弁なるうへ、奉行すべき器量なるによりて、京の御所より思食定られて、亀山殿へ入御の後、兼て仰聞せらる。本所は後白河院崩御建久の例を守る。禁裏は後三条院延久(の)例を逐る。新院は白河院大治の例をひかる。
 さて、御葬礼已下の次第の御事ども果て、御骨は帥中納言<経任>掛まゐらせて、法花堂建立の程、まづ浄金剛院へ入せ給。法親王たち・前左府以下供奉せらる。其程の事書尽しがたし。御仏事は亀山殿の寝殿にて行はる。
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そうこうしているうちに、十七日の卯の時に、法皇はとうとうお亡くなりになられた。崩御後の御仏事などは大宮院が御計らいになったが、建久三年(1192)の後白河法皇の葬礼を息子の守覚法親王が沙汰した例にならって円満院宮(円助法親王)の御沙汰であった。前左大臣・洞院実雄に仰せて葬儀を行なわれた。葬儀の奉行は、これも建久の例にならって、前左大臣、帥中納言・中御門経任卿、左中弁親朝朝臣であった。建久の時は右大臣・花山院兼雅卿、民部卿・吉田経房卿、左中弁・平棟範朝臣であった。親朝朝臣は棟範朝臣の子孫ではないが、現役の中弁である上、奉行にふさわしい器量の持ち主であるので、禁裏(亀山天皇)がかねて定められて、亀山殿へ入られた後にその旨の仰せがあった。葬礼に際しては、本所(亀山殿)では後白河院崩御の建久の例に、禁裏(亀山天皇)では後三条院崩御の延久の例に従い、新院(後深草院)は白河院崩御の大治の例に従った。
さて、御葬礼以下の諸行事が終り、法皇の御骨は帥中納言(経任卿)が捧持し、法華堂建立まで安置するため、まず浄金剛院にお入れした。法親王たち・前左大臣・洞院実雄卿以下が供奉した。その程の事は書き尽くしがたい。御仏事は亀山殿の寝殿にて行われた。

ということで、このあたりは『五代帝王物語』の独自情報が多いですね。
御骨を運ぶ役の中御門経任について、『五代帝王物語』には『とはずがたり』や『増鏡』のような否定的評価は見られません。
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