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遊女と「公共性」

2010-06-29 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月29日(火)01時21分20秒

先の投稿で引用した部分は、著者が「この書物のハイライト」(p19)と言われる「明治における江湖の浮上」の「1 《江湖》新聞の誕生」の冒頭に置かれた次の記述を受けたものです。

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 遊女と言論人─この一見かけ離れた<渡世>を懸け橋することから、議論を始めたい。
 網野善彦以来、中世「公界(くがい)」論は多彩な議論を呼ぶことになったが、その限界は「公界」を実体化した形でしか捉えられなかったところにあった。しかしながら、のちには不特定多数と《交会 Verkehr》する遊女の渡世がもっぱらそう呼ばれたように、「公界」はむしろ、近世に入ってから関係概念としての可能性を見せ始めるのである。言うなれば、実体としての中世自治組織の”敗北”こそが、「公界」の関係概念化をもたらしたのだと言えよう。誤解を恐れず敢えて指摘すれば、共同体の「老若」よりも近世遊女の渡世の方が、その他者(ヘテロ)との関係性においては、はるかに《公共的》と言わねばなるまい。ただ《交通 Verkehr》とは、本質的に痛みを伴うものである。遊女の「公界」の痛みが、やがて「苦界」の語に置き換えられていくとき、「公界」の語そのものは地中に潜行し、別なる脱皮の日を待つことになったのである。
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網野善彦氏はやたら遊女が好きで、遊女に変な思い入れがあった人でしたが、東島氏も負けず劣らず遊女好きのようですね。
東島氏の場合、「公共性」概念は「万人に共通のもの」では駄目で、「万人に開かれた領域」でなければいかん、ということをしきりに強調されますが、とすると、prostitute は確かに「公共的」なんでしょうね。
東島氏は「万人に開かれた領域」を常に肯定的に捉えていますが、私はなぜそれが常に良いものなのかが理解できません。
必ずしも自明とはいえないと思いますが。
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