『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000910172004.html
p5以下
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さらに驚くべきことに、最近の河内祥輔氏の著書『保元の乱・平治の乱』では、つぎの平治の乱とあわせて、各天皇・院が自身の皇統に固執して内紛を引き起こした点が強調されている。天皇・院の意志だけで周辺が動き、内乱も惹起されるという理解は、まさに天皇・院こそが歴史の中心であり、臣民はそれに追随するだけということになりかねない。いかに天皇・院といえども、政治的活動をすべて個人の意志や判断のみで行うわけではない。皇位継承問題を含めて、その背後にある種々の政治勢力の支援や利害を反映していることは政治史理解の基本であろう。
歴史の動因を個人の思惑や恣意に還元する短絡的で平板な視角では、保元の乱、さらに平治の乱の真相を解明することなど、とうてい困難と言わねばならない。たしかに河内氏の書物は、保元・平治の乱に関する既往の見解を根本的に見直し、事実を確定しなおそうという野心作である。評価すべき点もあるし、その意図には敬意を表するが、先述の点も含めて、結論にはとうてい首肯しかねるところが多い。それらについては、文中で言及する。
平治の乱では信西や藤原信頼以外にも藤原経宗、同惟方らの二条天皇側近や、源師仲、藤原成親らの後白河院側近といった多くの貴族たちも重要な役割を果たしていた。信西と信頼という院近臣相互の対立に、武士の清盛・義朝の対立が結びついて乱が勃発したという、四人の行動で事件を捉える麻雀のような単純な図式は、考えなおすべきなのである。
いやそればかりではない。保元の乱で藤原頼長が全軍を指揮しようとしたのと同様に、平治の乱でも信頼は武装して戦闘に加わろうとした。武士と貴族は明確に区分され、対立し、武士が貴族をしだいに打倒してゆくという見方さえも再検討が必要となりつつあるのである。
『兵範記』というかなり確実な日記の存在する保元の乱に比べて、平治の乱の基本史料は鎌倉時代に作成された『愚管抄』や『平治物語』である。とくに後者の作為については国文学からの研究でも明らかとなっている。また、前者についても、摂関家、とくに忠通を弁護する姿勢が明白であるし、年代的にも大きく隔たる書物だけに、全面的に依拠することは困難である。 ただ、ここでも貴族と武士の対立、あるいは武士の主導権、そして清盛の勝利の必然性といった通説的理解の枠組みを排除し、乱の意味を再検討することとしたい。
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p149以下
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およそ日本史を学んだことのある人の中で、平治の乱の張本人藤原信頼に好印象をもつ御人はまずおられないであろう。『平治物語』によると、「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、又芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」急激な昇進を遂げたという。『愚管抄』でも「アサマシキ程ニ御寵アリケリ」と批判的な記述が見える。「寵」となると、上皇との男色関係を念頭においた記述であることは疑いない。
したがって、彼は無能でありながら、後白河院との男色関係によって破格の出世を遂げたことになる。そればかりか、昇進に待ったをかけた信西に逆ギレして殺害し、二条天皇・後白河院を幽閉して好き勝手な政治を行うが、あげくの果てに自身の失策で天皇・上皇の脱出を許し、平清盛の前に敗北する。それも、合戦に際して味方の義朝に罵倒され、武具を身につけるものの落馬して鼻血を出す体たらく……。『平治物語』と『愚管抄』の信頼像は共通しており、それをまとめるとこんなところになるだろう。
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p154以下
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義朝はなぜ信頼と提携したのか。『平治物語』では保元の乱以後、「平氏におぼえ劣」って不満を抱いていたことから信頼の誘いに応じたとする。後述する『愚管抄』では、信西が義朝との縁談を手荒く拒絶しながら、清盛と縁談を結んだことに義朝が遺恨を抱いたとする。内容は異なるが、義朝は些細な理由で愚かにも信頼の誘いに乗り、ついに身を滅ぼす結果となったということになる。
【中略】
そもそも、義朝と信頼との提携は、『平治物語』や『愚管抄』が述べるような単純なものではない。両者の間には、深く密接な関係が存在したのである。すでにふれたように、久寿二年(一一五五)八月、義朝の長子義平は叔父で頼長の腹心義賢を武蔵国比企郡大蔵館で攻め滅ぼしている。この時、義平の大胆な軍事行動は問題とならず、彼は処罰されることもなかった。これを黙認した武蔵守が、信頼だったのである。
信頼は保元二年、武蔵守を弟信説に譲った。平治の乱の当時の武蔵守は宣説であり、信頼は知行国主と考えられる。保元の乱における武士の動員形態をみても、義朝にとって武蔵は相模とならぶ重要な拠点となっていた。したがって、一貫して信頼との連係は不可欠だったに相違ない。しかし、両者をつなぐ絆はそれだけではなかった。
義朝が深い関係を有した国に陸奥がある。野口実氏によると、義朝は陸奥国に専使として近江の武士佐々木秀義を派遣して、矢羽や駿馬を購入していたという。秀義の叔母は秀衡の妻となっており、両者の関係は密接であった。優秀な馬や武具を入手して武門としての地位を保持するには、陸奥との交易は不可欠だったのである。その陸奥には信頼の兄基成が居住して藤原秀衡と姻戚関係を結び、政治顧問の役割を果たしていたと考えられる。
基成以後、陸奥守は隆教の息子隆親、ついで信説、信頼の叔父雅隆とつづき、雅隆が在任中に急死するや、基隆の外孫源国雅と、信頼の一族が相次いで補任されている。陸奥もおそらく信頼の知行国となっていたのであろう。奥州藤原氏や陸奥との交易を重視する義朝にとって、信頼との提携は不可欠だったのである。こうしてみると、信頼と義朝との提携は保元の乱以前にまで遡ることになる。
武士団の基盤武蔵と、駿馬や武具の生産地陸奥を押さえた信頼との提携は、義朝にとっては有力武士としての死命を制するに等しいものではなかったか。信頼と義朝との間にはきわめて密接な関係があり、それゆえに平治の乱における武力として義朝を起用したのである。したがって、たんに両者が信西に対する遺恨をもっていたために、乱直前に結託したわけではない。
たしかに、信頼自身の武芸は大したものではなかったのかもしれない。しかし、彼は義朝と密接な関係を結んでおり、さらに姻戚関係を有する清盛にも強い影響力を及ぼすことができた。彼は自在に武士を行使できる、武門ともいうべき立場にあったことになる。摂関家の大殿忠通が信頼の妹と嫡男基実の結婚という屈辱を甘受したのは、摂関家領を管理する武力を失った忠通が、信頼の武門という側面を期待したためである。
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さらに驚くべきことに、最近の河内祥輔氏の著書『保元の乱・平治の乱』では、つぎの平治の乱とあわせて、各天皇・院が自身の皇統に固執して内紛を引き起こした点が強調されている。天皇・院の意志だけで周辺が動き、内乱も惹起されるという理解は、まさに天皇・院こそが歴史の中心であり、臣民はそれに追随するだけということになりかねない。いかに天皇・院といえども、政治的活動をすべて個人の意志や判断のみで行うわけではない。皇位継承問題を含めて、その背後にある種々の政治勢力の支援や利害を反映していることは政治史理解の基本であろう。
歴史の動因を個人の思惑や恣意に還元する短絡的で平板な視角では、保元の乱、さらに平治の乱の真相を解明することなど、とうてい困難と言わねばならない。たしかに河内氏の書物は、保元・平治の乱に関する既往の見解を根本的に見直し、事実を確定しなおそうという野心作である。評価すべき点もあるし、その意図には敬意を表するが、先述の点も含めて、結論にはとうてい首肯しかねるところが多い。それらについては、文中で言及する。
平治の乱では信西や藤原信頼以外にも藤原経宗、同惟方らの二条天皇側近や、源師仲、藤原成親らの後白河院側近といった多くの貴族たちも重要な役割を果たしていた。信西と信頼という院近臣相互の対立に、武士の清盛・義朝の対立が結びついて乱が勃発したという、四人の行動で事件を捉える麻雀のような単純な図式は、考えなおすべきなのである。
いやそればかりではない。保元の乱で藤原頼長が全軍を指揮しようとしたのと同様に、平治の乱でも信頼は武装して戦闘に加わろうとした。武士と貴族は明確に区分され、対立し、武士が貴族をしだいに打倒してゆくという見方さえも再検討が必要となりつつあるのである。
『兵範記』というかなり確実な日記の存在する保元の乱に比べて、平治の乱の基本史料は鎌倉時代に作成された『愚管抄』や『平治物語』である。とくに後者の作為については国文学からの研究でも明らかとなっている。また、前者についても、摂関家、とくに忠通を弁護する姿勢が明白であるし、年代的にも大きく隔たる書物だけに、全面的に依拠することは困難である。 ただ、ここでも貴族と武士の対立、あるいは武士の主導権、そして清盛の勝利の必然性といった通説的理解の枠組みを排除し、乱の意味を再検討することとしたい。
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p149以下
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およそ日本史を学んだことのある人の中で、平治の乱の張本人藤原信頼に好印象をもつ御人はまずおられないであろう。『平治物語』によると、「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、又芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」急激な昇進を遂げたという。『愚管抄』でも「アサマシキ程ニ御寵アリケリ」と批判的な記述が見える。「寵」となると、上皇との男色関係を念頭においた記述であることは疑いない。
したがって、彼は無能でありながら、後白河院との男色関係によって破格の出世を遂げたことになる。そればかりか、昇進に待ったをかけた信西に逆ギレして殺害し、二条天皇・後白河院を幽閉して好き勝手な政治を行うが、あげくの果てに自身の失策で天皇・上皇の脱出を許し、平清盛の前に敗北する。それも、合戦に際して味方の義朝に罵倒され、武具を身につけるものの落馬して鼻血を出す体たらく……。『平治物語』と『愚管抄』の信頼像は共通しており、それをまとめるとこんなところになるだろう。
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義朝はなぜ信頼と提携したのか。『平治物語』では保元の乱以後、「平氏におぼえ劣」って不満を抱いていたことから信頼の誘いに応じたとする。後述する『愚管抄』では、信西が義朝との縁談を手荒く拒絶しながら、清盛と縁談を結んだことに義朝が遺恨を抱いたとする。内容は異なるが、義朝は些細な理由で愚かにも信頼の誘いに乗り、ついに身を滅ぼす結果となったということになる。
【中略】
そもそも、義朝と信頼との提携は、『平治物語』や『愚管抄』が述べるような単純なものではない。両者の間には、深く密接な関係が存在したのである。すでにふれたように、久寿二年(一一五五)八月、義朝の長子義平は叔父で頼長の腹心義賢を武蔵国比企郡大蔵館で攻め滅ぼしている。この時、義平の大胆な軍事行動は問題とならず、彼は処罰されることもなかった。これを黙認した武蔵守が、信頼だったのである。
信頼は保元二年、武蔵守を弟信説に譲った。平治の乱の当時の武蔵守は宣説であり、信頼は知行国主と考えられる。保元の乱における武士の動員形態をみても、義朝にとって武蔵は相模とならぶ重要な拠点となっていた。したがって、一貫して信頼との連係は不可欠だったに相違ない。しかし、両者をつなぐ絆はそれだけではなかった。
義朝が深い関係を有した国に陸奥がある。野口実氏によると、義朝は陸奥国に専使として近江の武士佐々木秀義を派遣して、矢羽や駿馬を購入していたという。秀義の叔母は秀衡の妻となっており、両者の関係は密接であった。優秀な馬や武具を入手して武門としての地位を保持するには、陸奥との交易は不可欠だったのである。その陸奥には信頼の兄基成が居住して藤原秀衡と姻戚関係を結び、政治顧問の役割を果たしていたと考えられる。
基成以後、陸奥守は隆教の息子隆親、ついで信説、信頼の叔父雅隆とつづき、雅隆が在任中に急死するや、基隆の外孫源国雅と、信頼の一族が相次いで補任されている。陸奥もおそらく信頼の知行国となっていたのであろう。奥州藤原氏や陸奥との交易を重視する義朝にとって、信頼との提携は不可欠だったのである。こうしてみると、信頼と義朝との提携は保元の乱以前にまで遡ることになる。
武士団の基盤武蔵と、駿馬や武具の生産地陸奥を押さえた信頼との提携は、義朝にとっては有力武士としての死命を制するに等しいものではなかったか。信頼と義朝との間にはきわめて密接な関係があり、それゆえに平治の乱における武力として義朝を起用したのである。したがって、たんに両者が信西に対する遺恨をもっていたために、乱直前に結託したわけではない。
たしかに、信頼自身の武芸は大したものではなかったのかもしれない。しかし、彼は義朝と密接な関係を結んでおり、さらに姻戚関係を有する清盛にも強い影響力を及ぼすことができた。彼は自在に武士を行使できる、武門ともいうべき立場にあったことになる。摂関家の大殿忠通が信頼の妹と嫡男基実の結婚という屈辱を甘受したのは、摂関家領を管理する武力を失った忠通が、信頼の武門という側面を期待したためである。
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たまたま今日、『日本中世の政治と制度』を図書館で借りてきました。これから読んでみます。