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『平安の宮廷と貴族』(吉川弘文館、1996)
平安時代は皇統の理念の変転にともなって展開し、律令制変質後は摂関政治・院政を現出させ、多彩な人物の輩出をみた。皇統の歴史を概観し、400年の舞台に登場しては去っていった者たちの栄華と凋落の軌跡を諄々と語る。あわせて平安時代の必須史料である日記の概説と『御堂関白記』『渡宋記』「院宮文書」読解の実例を示し、時代史入門の手引きとする。
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第四 美福門院藤原得子
一 諸大夫の女
二 院の寵人
三 国母の皇后
四 美福門院
五 孫王擁立計画
六 終局
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p200以下
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四 美福門院
久安五年(一一四九)八月三日、皇后得子に院号宣下があり、后位を去って美福門院と称することになった。別当には権大納言藤原伊通・同藤原成通・左衛門督藤原公教・大蔵卿藤原忠隆・内蔵頭兼播磨守平忠盛・左近衛権中将藤原伊実を任じ、判官代には勘解由次官藤原顕遠(後、顕時と改名)・遠江守藤原惟方・散位高階清章を任じた(『本朝世紀』『惟方卿記』『顕時卿記』)。伊通は先にも触れた有識の公卿、成通は伊通の弟で前皇后宮大夫、公教は閑院流三条家の嫡嗣で鳥羽院執事別当、忠隆は前皇后宮権大夫、忠盛は前皇后宮亮、伊実は伊通の二男で前職事である。また判官代の顕遠・惟方は前皇后宮権大夫、清章は前少進であるが、いずれも鳥羽院近臣である。ついで十月二日、殿上始を行い、忠盛以下五十五人を殿上人とし、さらに左兵衛督藤原重通以下十一名を別当に追加補任している(『兵範記』)。廷臣の主要人物を殆ど取り込んだような院司の構成には目を見張るものがあるが、筆頭の殿上人忠盛に「年預」と注しているのが特に目を惹く。忠盛は年預として院中の諸事を弁備しているが、世人の評判は甚だよく、「数国の吏を経て、富巨万を累ね、奴僕国に満ちて、武威人に軼ぐ、然れども人と為り恭倹、未だ嘗て奢侈の行いあらず」といわれ(『宇槐記抄』)、武人ながら宮廷社会においても隠然たる勢力をもって一目おかれた存在であったからである。
それはともかく、この時点で皇后得子に院号宣下があったのは、頼長の養女藤原多子の入内がいよいよ日程にのぼり、その立后も予想されたうえ、得子が多子の入内に対抗して、ひそかに藤原呈子の入内立后を画策していたためではなかろうか。頼長は久安四年(一一四八)六月、鳥羽法皇から多子入内の確約を取りつけ、七月三日には入内の準備を始めたが、同月六日、皇后が藤原伊通の女呈子を白川御所に迎えて養女としたので、いろいろな風説を生んだらしい。頼長もいまだ皇后の真意に気付かず、「将に雅仁親王に嫁がせんとす」という風聞を日記に書き載せている。多子の入内は、天皇の元服が一年遅れて久安六年正月四日に行われたので、同月十日ようやく実現したが、二月十一日に至って、呈子が摂政忠通に迎えられて養女となり、即日入内雑事定が行われて、頼長を当惑させた。『台記』には、「其の入内、大相国〔忠通〕張本たり」という説と共に、「美福門院張本たり、法皇又これを許す、詐って大相を以て張本となす」との説を掲げている。その後の経緯も勘案すれば、忠通の養女というのは形ばかりで、後者の説がまさしく真相を看破したものであろう。
こうして呈子入内の風聞を耳にした頼長は、急遽、多子の立后を法皇に懇請した。しかし摂政の忠通は陰に陽にそれを阻止しようとし、兄弟の対立はいよいよ表面化し、激化して行った。そこで頼長を後援する忠実は、美福門院に書を上って多子立后の成就を懇請することを勧めた。頼長は未だ曾つて書を上ったことがない間柄だから、「謟諛の名」を蒙るであろうと渋ったが、父に叱咤されてその勧告に従った。老練な忠実は、この問題の鍵を握るのは美福門院であることを見抜いていたのである。かくて紆余曲折を経ながら、三月十四日に至ってようやく多子は立后し、皇后宮となった。
一方、呈子の入内準備は着々と進み、四月二十一日に入内、六月二十二日に立后して中宮となった。多子がまだ十一歳であったのに対し、呈子はすでに二十歳に達しており、美福門院は速やかな皇子の出産を期待したらしい。『兵範記』には、仁平二年(一一五二)十月十九日条に「今日中宮懐妊の御帯を着せしむ、美福門院より御沙汰あり、主上の御乳母の二位これを調進す」とあるのをはじめ、十二月二日には中宮御座所で御産雑事定があり、同月二十二日には中宮が内裏より御産所に退出、御産御祈を始行し、美福門院も等身御仏五体を造立したこと、また同日、女院御所において五夜産養定が行われたことなどが見える。美福門院の積極的な関与が目につくし、ことに五夜の産養は、三夜が新児の母后、七夜が父皇の主催であるのに対し、祖父皇あるいは外祖父など、前二者に次ぐ近親者が行う例であるから、これも女院と中宮呈子の特別な関係を裏付けるものである。ところが中宮は、翌年三月の出産の期を過ぎても何の気配もなかった。その年七月三十日の『兵範記』には、「中宮御産、今月も亦経過し了んぬ。去る四月御仕度ありと雖も、五、六、七並びに三箇月、空しく日月を送る。御祈の僧徒天を仰いで懇念、内外の祈禱いよいよ止むことなしと云々」と見え、八月二十八日条には「中宮御産、今月又無音、已に十五箇月に及び了んぬ」とあり、ついに十二月十七日、中宮は御産所より内裏に還啓するに至った。結局この懐妊騒ぎは、周囲の期待に促された、いわゆる想像妊娠に終ったのであろう。そして皇子降誕の期待を裏切られた美福門院は、この前後から皇嗣について一つの案を画策したらしい。鳥羽法皇をも驚かせた孫王擁立計画である。
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第四 美福門院藤原得子
一 諸大夫の女
二 院の寵人
三 国母の皇后
四 美福門院
五 孫王擁立計画
六 終局
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p200以下
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四 美福門院
久安五年(一一四九)八月三日、皇后得子に院号宣下があり、后位を去って美福門院と称することになった。別当には権大納言藤原伊通・同藤原成通・左衛門督藤原公教・大蔵卿藤原忠隆・内蔵頭兼播磨守平忠盛・左近衛権中将藤原伊実を任じ、判官代には勘解由次官藤原顕遠(後、顕時と改名)・遠江守藤原惟方・散位高階清章を任じた(『本朝世紀』『惟方卿記』『顕時卿記』)。伊通は先にも触れた有識の公卿、成通は伊通の弟で前皇后宮大夫、公教は閑院流三条家の嫡嗣で鳥羽院執事別当、忠隆は前皇后宮権大夫、忠盛は前皇后宮亮、伊実は伊通の二男で前職事である。また判官代の顕遠・惟方は前皇后宮権大夫、清章は前少進であるが、いずれも鳥羽院近臣である。ついで十月二日、殿上始を行い、忠盛以下五十五人を殿上人とし、さらに左兵衛督藤原重通以下十一名を別当に追加補任している(『兵範記』)。廷臣の主要人物を殆ど取り込んだような院司の構成には目を見張るものがあるが、筆頭の殿上人忠盛に「年預」と注しているのが特に目を惹く。忠盛は年預として院中の諸事を弁備しているが、世人の評判は甚だよく、「数国の吏を経て、富巨万を累ね、奴僕国に満ちて、武威人に軼ぐ、然れども人と為り恭倹、未だ嘗て奢侈の行いあらず」といわれ(『宇槐記抄』)、武人ながら宮廷社会においても隠然たる勢力をもって一目おかれた存在であったからである。
それはともかく、この時点で皇后得子に院号宣下があったのは、頼長の養女藤原多子の入内がいよいよ日程にのぼり、その立后も予想されたうえ、得子が多子の入内に対抗して、ひそかに藤原呈子の入内立后を画策していたためではなかろうか。頼長は久安四年(一一四八)六月、鳥羽法皇から多子入内の確約を取りつけ、七月三日には入内の準備を始めたが、同月六日、皇后が藤原伊通の女呈子を白川御所に迎えて養女としたので、いろいろな風説を生んだらしい。頼長もいまだ皇后の真意に気付かず、「将に雅仁親王に嫁がせんとす」という風聞を日記に書き載せている。多子の入内は、天皇の元服が一年遅れて久安六年正月四日に行われたので、同月十日ようやく実現したが、二月十一日に至って、呈子が摂政忠通に迎えられて養女となり、即日入内雑事定が行われて、頼長を当惑させた。『台記』には、「其の入内、大相国〔忠通〕張本たり」という説と共に、「美福門院張本たり、法皇又これを許す、詐って大相を以て張本となす」との説を掲げている。その後の経緯も勘案すれば、忠通の養女というのは形ばかりで、後者の説がまさしく真相を看破したものであろう。
こうして呈子入内の風聞を耳にした頼長は、急遽、多子の立后を法皇に懇請した。しかし摂政の忠通は陰に陽にそれを阻止しようとし、兄弟の対立はいよいよ表面化し、激化して行った。そこで頼長を後援する忠実は、美福門院に書を上って多子立后の成就を懇請することを勧めた。頼長は未だ曾つて書を上ったことがない間柄だから、「謟諛の名」を蒙るであろうと渋ったが、父に叱咤されてその勧告に従った。老練な忠実は、この問題の鍵を握るのは美福門院であることを見抜いていたのである。かくて紆余曲折を経ながら、三月十四日に至ってようやく多子は立后し、皇后宮となった。
一方、呈子の入内準備は着々と進み、四月二十一日に入内、六月二十二日に立后して中宮となった。多子がまだ十一歳であったのに対し、呈子はすでに二十歳に達しており、美福門院は速やかな皇子の出産を期待したらしい。『兵範記』には、仁平二年(一一五二)十月十九日条に「今日中宮懐妊の御帯を着せしむ、美福門院より御沙汰あり、主上の御乳母の二位これを調進す」とあるのをはじめ、十二月二日には中宮御座所で御産雑事定があり、同月二十二日には中宮が内裏より御産所に退出、御産御祈を始行し、美福門院も等身御仏五体を造立したこと、また同日、女院御所において五夜産養定が行われたことなどが見える。美福門院の積極的な関与が目につくし、ことに五夜の産養は、三夜が新児の母后、七夜が父皇の主催であるのに対し、祖父皇あるいは外祖父など、前二者に次ぐ近親者が行う例であるから、これも女院と中宮呈子の特別な関係を裏付けるものである。ところが中宮は、翌年三月の出産の期を過ぎても何の気配もなかった。その年七月三十日の『兵範記』には、「中宮御産、今月も亦経過し了んぬ。去る四月御仕度ありと雖も、五、六、七並びに三箇月、空しく日月を送る。御祈の僧徒天を仰いで懇念、内外の祈禱いよいよ止むことなしと云々」と見え、八月二十八日条には「中宮御産、今月又無音、已に十五箇月に及び了んぬ」とあり、ついに十二月十七日、中宮は御産所より内裏に還啓するに至った。結局この懐妊騒ぎは、周囲の期待に促された、いわゆる想像妊娠に終ったのであろう。そして皇子降誕の期待を裏切られた美福門院は、この前後から皇嗣について一つの案を画策したらしい。鳥羽法皇をも驚かせた孫王擁立計画である。
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