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尊称皇后・女院・准三宮について(岩佐美代子氏『内親王ものがたり』)

2019-05-02 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 2日(木)13時23分24秒

ここ暫く三好千春氏の論文に即して姈子内親王(遊義門院)を検討してきましたが、「尊称皇后」自体がかなり難解な応用問題である上に、姈子内親王の場合、十六歳で皇后となった九年後、二十五歳のときに後宇多院と現実の婚姻関係を結ぶという極めて特異な、史上唯一の事例となっていて、応用問題中の応用問題ともいえます。
三好氏の論文は国文学の人ならある程度理解できるでしょうが、中世史の研究者でも荘園や武士論などをやっている野蛮人の方々にはチンプンカンプンかもしれないので、何か参照に便利な基礎知識のまとめがないかなと探していました。
まあ、ウィキペディアなども便利は便利なのですが、平易な文章で、しかも記述のバランスが良いものはなかなか見当たらなかったのですが、岩佐美代子氏の『内親王ものがたり』(岩波書店、2003)の「序章」が優れていることに気づいたので、これを紹介したいと思います。
同書の「序章」は、

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1 内親王とは
2 内親王のお名前
3 内親王の生き方
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と構成されていて、「3 内親王の生き方」には最初に若干の解説の後、「内親王の生き方としては、昔からどういう道があったのでしょうか」として、六つの道が列挙されています。(p7以下)

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1 天皇の正后─皇后・中宮
 皇后・中宮は古くは同じ意味でしたが、平安時代、立后の順序により、新たに立たれた正后を中宮と称し、これに対してもとからの正后を皇后と称するようになりました。天皇の正規の配偶者で、これは女性の最高地位。内親王にはいかにも望ましく、またふさわしいと思われますが、この地位にはどうしても政権とそれを支える財力という問題がからんで来ます。従って、ごく初期には皇女独占であったこの地位も、聖武天皇の光明皇后以後藤原氏に取ってかわられ、内親王として正后となられたのは次の十人の方々だけです(後に述べる尊称皇后は除きます)。
 光仁天皇皇后井上内親王(聖武皇女)
 淳和天皇皇后正子内親王(嵯峨皇女)
 冷泉天皇中宮昌子内親王(朱雀皇女)
 後朱雀天皇中宮禎子内親王(三条皇女)
 後冷泉天皇中宮章子内親王(後一条皇女)
 後三条天皇中宮馨子内親王(後一条皇女)
 堀河天皇中宮篤子内親王(後三条皇女)
 二条天皇中宮姝子内親王(鳥羽皇女)
 後醍醐天皇中宮珣子内親王(後伏見皇女)
 光格天皇中宮欣子内親王(後桃園皇女)
しかもこのうち、天皇の生母は、御三条天皇をお生みになった禎子内親王(のち、陽明門院)だけです。そしてほとんど皆、天皇との愛情というより、周囲の地事情により結婚されましたので、お幸せな一生であったとは軽々しく言えません。
2 女帝
 【中略】
3 斎宮・斎院
 【中略】
4 結婚
 【中略】
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いったんここで切ります。
先日言及した洞院佶子・西園寺嬉子の場合、最初に佶子が亀山天皇の「中宮」となった後、嬉子も入内して「中宮」となり、「もとの中宮」の佶子は「あがりて、皇后宮とぞ聞え給ふ」となっています。

「巻七 北野の雪」(その4)─洞院佶子、立后
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c70935efc0465b67406a1d5f67f0afb9
「巻七 北野の雪」(その5)─西園寺嬉子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/853053e3a64d9fb7a4655e1b35872dc0

二人の関係は後堀河天皇(1212-34)の時代の三条有子(安喜門院、1207-86)、近衛長子(鷹司院、1218-75)、九条竴子(藻璧門院、1209-33)の関係、即ち権勢を握った者が自分の娘を入内させると先行の中宮が皇后となって宮中を退去するというパターンを連想させますが、佶子の場合は皇后となっても退去することはなく、時代の変化、ないし後嵯峨院・亀山天皇の個性の強さを感じさせます。

「巻三 藤衣」(その2)─安喜門院・鷹司院・藻璧門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8d999f1434a5680309b35430d0b0619

さて、「内親王の生き方」に戻って、続きです。

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5 独身─尊称皇后・女院
 結局、内親王方は多く独身で過される事になります。当然、生活が問題になりましょう。母方、また乳母の一族が面倒を見ると同時に、内親王としての体面を保つため、品位(親王に与えられる位階。一品から四品まであり、一定の俸禄が保証される)を賜わるという事がありましたが、平安中期以後はその機能は衰退、独身生活は難しくなりました。一方、白河天皇が皇子堀河天皇に位を譲って院政を開始されて以来、十歳に満たない幼い天皇が続き、その生母がすでに故人である時、また身分の低い時は、形式的に天皇の准母(お母様代り)として、近親の独身の内親王を皇后とし、即位式の高御座に天皇を抱いて登る、また行幸の輿に同乗するなど、天皇としての威儀を整えると同時に、独身の内親王を財政的に優遇する、という便法が生れました。その最初、堀河天皇准母となられた媞子内親王(白河皇女)は中宮を称されましたが、次の鳥羽天皇准母令子内親王(白河皇女)以後は、「中宮」は天皇の配偶者、「皇后」は配偶関係のない天皇准母、という呼び分けができ、歴史学ではこれを「尊称皇后」といって区別しております。また男女の別なく三后(皇后・皇太后・太皇太后)に準ずる待遇を与える「准三宮(准三后、准后)」という制度を適用された方もあります。
 一条天皇生母東三条院(皇太后藤原詮子)にはじまる女院の制は、国母(天皇の母后)を尊んで太上天皇に準じた制度でしたが、次第に範囲を拡大、平安末から鎌倉にかけ、内親王が尊称皇后を経て女院となるのが慣例となり、更に八条院(鳥羽皇女暲子内親王)以後准三后から女院となる、という新例も聞かれました。
 これらは内親王優遇の一面、院政期に入って上皇個人の所有として貯えられた膨大な所領を、分割散逸させず守り続けるため、配偶者もお子さんもいない内親王をその相続者とし、皇室領として温存しようとする、時代の要請にそった便法でもあったわけです。宮廷の実力も土地制度も一変した南北朝時代以降は、このような独身内親王の優遇制はなくなりました。
6 出家─尼門跡【後略】
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ということで、「尊称皇后」は婚姻関係とは切り離されており、特定の女性が極めて高い身分であることを示す概念ですが、これは史料用語ではなく、あくまで研究上の用語です。

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