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「この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である」(by 三好千春氏)

2019-05-06 | 猪瀬千尋『中世王権の音楽と儀礼』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 5月 6日(月)14時49分0秒

続きです。(p54以下)

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 中世的な「家」が成立していく中で、天皇家においても皇位継承者の生母の出自はかつてほど問われなくなった。だがその一方で、治天の君の「正妻」の地位はより重要視されるものに昇華されていた(7)。西園寺氏を拒否した亀山院とて、後宇多生母の京極院洞院佶子亡き後、近衛位子(新陽明門院)を正妃格として迎え入れており(8)、彼女の出家、没後は更に西園寺瑛子(昭訓門院)を迎えている(9)。これに対し、後宇多後宮の源基子や一条頊子も決して低い出自ではないが正后妃扱いを公的にはされず、後宇多には頼りになるパートナー=正妻が不在のままだったのである。後宇多の正妻について、結果的には亀山は干渉しなかった。しかし、それゆえに後宇多は自らの「家」確立のために、自分自身で価値ある正妻を選出し、獲得する努力をしなければならなかったと言える。のちに、後宇多によって中継ぎの天皇とされた後醍醐にも後宇多指定の正后は不在であり、東宮時代に後醍醐自らが西園寺実兼女・禧子を略奪という強引な手段で正妻に迎えた(10)ことも、そういった背景を裏付ける事例である。そして、後宇多もしくは彼を取り巻く状況が選んだのは、結局のところ、持明院統の姈子内親王だったのである。

(7) 注(2)、栗山圭子「中世王家の存在形態と院政」(『ヒストリア』一九三号、二〇〇五年)。夫帝譲位に伴い女院号宣下を受けて、夫院と同居する後宮(国母)女院が出現するのもこのためであろう(高倉中宮・建礼門院平徳子、後堀河中宮・藻璧門院九条竴子、後嵯峨中宮・大宮院西園寺姞子等)。彼女たちが母后として内裏で幼帝に近侍するよりも、治天の君(夫院)との同居を選択した結果、幼帝に必要な母后代理として不婚内親王立后が行われている(殷富門院亮子内親王、式乾門院利子内親王、仙華門院曦子内親王等)。
(8)『女院小伝』によれば、文永十一年六月入内、翌文永十二年に女御、准三宮、新陽明門院号宣下。『吉続記』建治元年十二月二十六日条に「舞踏如常、新女院御方同申之、依御同宿也」とあり、正妻格であることがわかる。
(9)『実躬卿記』正安三年三月十九日条。
(10)『花園天皇宸記』正和三年正月二十日条。
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三好氏の「正妃格」、「正后妃扱い」、そして「頼りになるパートナー=正妻」といった表現の曖昧さについては既に若干の私見を述べました。
「正妻」については栗山圭子氏の「中世王家の存在形態と院政」を読む必要がありそうですが、現時点では未読です。

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 この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である。『増鏡』には、弘安八年(一二八五)二月の北山准后・四条貞子(西園寺実氏室、後宇多と姈子にとって外曾祖母)九十賀の席上において、「姫宮、(中略)おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ」(11)と姫宮・姈子に注がれる内の上・後宇多の眼差しについて語られ、その後、後宇多が「いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします」(12)と、略奪婚説を伝えている。はたして実際のところ、このようにいかにも物語的な事件が本当に起こったのだろうか。『勘仲記』や『実躬卿記』にはそれらしい記述は見当たらない。婚姻した日付も『女院小伝』は永仁二年(一二九四)六月三十日としているが、『続史愚抄』の同年六月二十八日条に、

今夜、遊義門院<法皇本院皇女、御同座、御年廿五>不知幸所、是新院竊被奉渡于御所<冷泉万里小路>云、<或作五条院、謬矣、又作三十日、今月小也、無三十日>後為妃、

とある。伴瀬明美氏は「日付がはっきりしない点は、この事件全体の真相が明らかではないことと無関係ではあるまい」(13)とし、森茂暁氏は後醍醐の西園寺禧子略奪が実際に史料上確認できることから、姈子略奪についても事実ではないかとの見解を示している(14)。

(11)老の波。
(12)さしぐし。
(13)「はじめに」注(5)に同じ。
(14)『後醍醐天皇』(中公新書、二〇〇〇年)
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伴瀬明美氏の見解はこちらです。

遊義門院再考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89f6135364af467d393614e15fd75662
「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fadd72cad3a95e02f94b4c3226bc95c
「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c

また、森茂暁氏の見解はこちらです。

http://web.archive.org/web/20150923223743/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-godaigonotojo-01.htm

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