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網野善彦を探して(その11)─上田篤の回想

2019-01-22 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月22日(火)10時50分23秒

犬丸義一によれば、1951年の「八月にコミンフォルムの再論評があり、下旬に埼玉大学で細胞解散総会が開かれ」て東大の国際派細胞は解体したことになりますが、犬丸個人の立場はともかくとして、実際には分派抗争が相当長く続いたようですね。
このあたりの事情が私にはよく分からなかったのですが、京大で「所感派」(主流派)に属し、1951年11月12日の「京大天皇事件」の後、「東京へ2カ月近くビラをまきに行った」上田篤氏の回想に、当時の東京の学生運動の混乱状態が出てきます。

今西一「荒神橋事件・万博・都市科学研究所-上田篤氏に聞く-」(『小樽商科大学人文研究』122号、2011)
https://barrel.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=579&item_no=1&page_id=13&block_id=135

これによると、

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今西「天皇事件に参加されたのはどういう経緯ですか。もう共産党とか,そういうものに関係しておられたんですか?」
上田「いや,先にもいいました両条約反対デモに参加したのがきっかけです。9月か10月に。天皇事件の時はまだ一学生であった。で,天皇事件で,同学会から往きの旅費だけもらって私は東京へ2カ月近くビラをまきに行ったんです。で,東京でいろいろなことを知った。関西では信じられないことだったが,東京の学生運動にはいろいろな派閥がある,…全学連すら二つある。国際派と呼ばれる連中と,主流派の再建全学連と。私はその両方に会いにいった。私学はどうかというと,早稲田大学は…あらゆる活動団体の組織があってビックリした。慶應や津田塾,立教などもまわりましたが,ここは主流派が押さえていました。2カ月くらいの間,ビックリの連続でした。学生運動っていってもいろいろ派閥があると。そういうことを経験して帰ってから総括してやっているうちに,ますます深みに入りました。51年の冬です。暮れの12月くらいですね」
今西「武井昭夫さん(評論家,故人)を中心とした,いわゆる東大の国際派全学連のグループですね」
上田「安東仁兵衛さん(職業革命家,故人)もいました。都学連が再建全学連を称し,伝(つとう)さんが委員長でいました」
今西「ええ,名前だけはよく」
上田「彼と一緒に二カ月近く歩き回ったんです。結果から考えると,国際派潰しのために主流派に利用されたのかもしれません」
今西「そうですか。早稲田は神山派から色々なグループが四分五裂でしたね」
上田「ええ,四分五裂でしたね早稲田は。われわれ田舎者にとっては(笑)。こんな問題があるとは知らなかった。関西は民青(民主青年団)というか共産党主流派一辺倒でしたから」
今西「当時の関西は主流派ですよね。主流派の拠点ですから」
上田「そうです。ずっと一貫して」
今西「だから国際派はものすごく少数派でしょ」
上田「ほとんど表に出なかったですね」
今西「ああ,出てなかったですか」
上田「僕は知らなかった」
今西「小松左京(実)さん(作家,故人)なんかはお友達でしょう。小松さんは国際派ですね」
上田「あとから聞いたんだけどね。彼もあれもあやふやな男ですが(笑)。
本当は僕らの時にも一緒にいた。体が大きかったもんだから,京大名物の『壁』という大きなプラカードがあって,それを持っていつもデモの先頭に立っていた。三畳敷きくらいの大きなプラカードです。それを5~6人でかつぐんだけど,体の大きいヤツがやる。小松はいつもその役をやっていたから主流派でもあったでしょう。あれもいろいろ付き合いがいいから(笑)」
今西「主流派でもあったんですか。でも,小松さんは数少ない国際派の一人ですよね?」
上田「そうでしたか? それはあとのことでしょう」
今西「まあ,でも京都は国際派はごく少数派ですね」
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ということで(p11以下)、この書き方だと、1951年8月「下旬に埼玉大学で細胞解散総会が開かれ」た後も「国際派」が存続していたとしか読めません。
ま、犬丸の立場からすれば「旧国際派」の武井・安東グループとでもいうことになるのでしょうが。
ところで、上田篤氏には何が専門なのか分からないほど広範囲に及ぶ多数の著書があり、中でも京都の町屋や「鎮守の森」の研究で特に有名な人なので、何となく温厚篤実な人物のように思っていたのですが、学生時代は異常に有能な「革命家」だったようですね。

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今西「50年に共産党が分裂して,51年くらいから軍事行動ですね,いわゆる火瓶闘争とか代議士の水谷長三郎宅襲撃事件とかを起こしていますよね。この時にはもう,先生は山村工作隊にいかれていたのですか」
上田「その時はまだです。共産党の一兵卒なんです。しかしやがて,京都中の火焔瓶をつくらされた。僕は工学部ですからね(笑)。火焔瓶をつくるのは,硫酸を薄めて希硫酸にして,ガソリンと一緒にビールビンの中に入れる。そしてビールビンの細いところを,塩素酸カリに浸した新聞紙を巻くんです。それを全部,大学の薬を使って。ですから工学部には何人もの協力者がいました」
今西「大学の薬を勝手に使って(笑)」
上田「誰かが盗んだんです(笑)。僕は3年生の時にそれをつくった。その隊長が中堀和英。中堀がリーダーで僕ら兵隊の指揮官だった。まあ今から60年前の話です」
今西「『球根栽培法』なんかは出ていたんですか? それに基づいてつくられた?」
上田「そういうのも出ていました。火炎瓶はのちに聞いたのですが,『モロトフのカクテル』といわれてた。当時のロシアのモロトフ外相が,考案したといわれてるんですけど,本当かどうか知りませんが簡単につくれた(笑)。
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ということで(p13以下)、語り口も楽しそうです。
上田氏が凄いのは、「京都中の火焔瓶をつくらされ」ていても自分では一切、というか警察に捕まりそうな状況では一切火焔瓶を投げなかったことですね。
また逃げ足がものすごく速かったそうで、

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上田「僕はただ,それまで何回も実力デモをやって,警官に追い回されたんだけれど,高校時代サッカーをやっていて足が速かったんで捕まらなかった。今でこそ有名だけど,当時の中学,高校ではほとんどサッカーなんて知られていない。だから,ともかく足は速かった。足のおかげで捕まらなかった。丸物百貨店の七階まで警官をふり切って一気にかけ上り女便所に隠れたり,祇園のお茶屋の通り庭の奥の蔵の影に身をひそめたりしました(笑)」
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と自慢しています。(p23)
結局、京大細胞のリーダー格として、さんざっぱら危ない活動を指導し、自分でも実践したにも拘らず、警察には逮捕されず、経歴に傷をつけることのないまま、ちゃっかり国家公務員試験上級職に合格して建設省に入ったりした訳で、上田氏は本当に世渡り上手ですね。
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