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第三回中間整理(その3)

2018-04-04 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月 4日(水)21時56分10秒

「巻八 あすか川」は文永五年(1268)正月、「今上の若宮」(後の後宇多天皇)の「御五十日」の儀に一言だけ触れた後、「後嵯峨院五十賀試楽」の長大かつ詳細な記述で始まります。

「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516dab82b9ece210bbbd258cf04d5a02

この記事では廷臣の名前の羅列が続きますが、摂関家の人々に特別扱いはありません。
むしろ二条家については、『増鏡』作者の悪意を感じさせる奇妙な記述があります。

「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c

他方、後深草院二条の母方である四条家については、かなり好意的と思われる記述があります。

「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171

そして「後嵯峨院五十賀試楽」の煩瑣な記事がやっと終わった後、今度は「富小路殿舞御覧」の長い記事が続きます。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

なお、『五代帝王物語』や『とはずがたり』にも「後嵯峨院五十賀試楽」・「富小路殿舞御覧」に関連する興味深い記述があります。

『五代帝王物語』に描かれた「富小路殿舞御覧」と「後嵯峨院五十賀試楽」
『とはずがたり』に描かれた「後嵯峨院五十賀試楽」と「白河殿くわいそ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d624c6d4c245b64874dcb63f05afd55c

「後嵯峨院五十賀試楽」や「富小路殿舞御覧」の記事は現代人にとっては退屈極まりなく、うんざりしてしまうのですが、ではこれが当時の貴族社会の人々の感覚と一致しているかというと、そうでもないようです。
この点、『増鏡』と近衛基平の「深心院関白記」の記事を比較すると興味深い事実が指摘できそうなのですが、きちんとした分析はまだ済ませておらず、若干の準備作業のみ行なっています。

『深心院関白記』に描かれた「富小路殿舞御覧」と「後嵯峨院五十賀試楽」

さて、儀礼関係の記事が続いた後、蒙古襲来の報の記事となるのですが、これが信じられないほどあっさり終わってしまい、「今上の若宮」、世仁親王(後宇多天皇)の立太子の話になります。
その短い記事の中で、『増鏡』作者は改めて西園寺家と洞院家の対立に言及します。

「巻八 あすか川」(その5)─蒙古襲来の報
「巻八 あすか川」(その6)─世仁親王(後宇多天皇)立太子

そして後嵯峨院の出家の記事の後、「愛欲エピソード」の二番目である月花門院薨去の記事が出てきます。
これは愛人二人が通った後、堕胎の失敗で死んでしまったという話で、「愛欲エピソード」の初例である洞院公宗の禁断の恋に比べると随分生々しい話です。

「巻八 あすか川」(その7)─後嵯峨院、出家
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1a0d4d670c6f0b1be347c720a307bc3
「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fefb8903614166d0eee9c4963c36217
歌人としての月花門院

月花門院の愛人の一人とされる源彦仁とその息子の忠房親王は珍しい経歴の持ち主ですね。
二条家と特別な関係があるようです。

源彦仁と忠房親王(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7360b908d5e5bf597727991c1ceb4cd2
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第三回中間整理(その2)

2018-04-04 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月 4日(水)12時25分25秒

「巻七 北野の雪」は正元元年(1259)の亀山天皇即位から始まりますが、すぐに洞院公宗が同母妹の佶子(京極院)に恋をするという「愛欲エピソード」の初例が出てきます。
ただ、あくまで精神的かつ一方的な関係とされており、『源氏物語』を思わせる華麗な文章で描かれていることもあって、後に続々と出てくる「愛欲エピソード」ほど生々しい印象は与えません。

「巻七 北野の雪」(その1)─亀山天皇即位
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3df252a4860cd095f3b31eca7106579d
「巻七 北野の雪」(その2)─洞院佶子と洞院公宗
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1c2c8eec29b852e974736def4499e8

その佶子入内の目出度い場面で、『増鏡』の著者は貫川という身分の低い女性に着目し、亀山天皇が貫川に姫宮を産ませ、その姫宮が後に近衛家基の正室になったという話を挟みます。
貫川は「巻十 老の波」に再び登場しており、『増鏡』作者にとっては何故か特別な興味を惹く存在だったようです。

「巻七 北野の雪」(その3)─御雑仕・貫川
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/099e8eceb2f5caac3fdf3388b3f7ebc3

洞院家に対抗して西園寺家も公相の娘の嬉子を入内させ、嬉子が中宮、洞院佶子が皇后宮となります。

「巻七 北野の雪」(その4)─洞院佶子、立后
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c70935efc0465b67406a1d5f67f0afb9
「巻七 北野の雪」(その5)─西園寺嬉子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/853053e3a64d9fb7a4655e1b35872dc0

弘長三年(1263)に亀山天皇が亀山殿に行幸する場面で、二条家の祖の良実の名前が出てきますが、その御随身が花やかだった程度の話です。

「巻七 北野の雪」(その6)─亀山天皇、亀山殿行幸

この後も後嵯峨院の行事に際して関白の名前が出てきますが、あくまで行事参加者の一員との扱いです。

「巻七 北野の雪」(その7)─後嵯峨院、如法写経
「巻七 北野の雪」(その8)─亀山殿歌合

九条道家失脚後、後嵯峨院皇子の宗尊親王が将軍となって公武の関係は穏やかでしたが、文永三年(1266)、御息所の密通云々という不可解な事情で、宗尊親王が鎌倉を追放されます。
このとき、「いまだ下臈なりし程」の中御門経任が鎌倉に派遣され、円満な解決をもたらしますが、経任は『増鏡』・『とはずがたり』・『五代帝王物語』に極めて興味深い形で登場し、この三つの書物の関係を考える上でひとつの鍵となる人物です。

「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d2dc607027cdaf8a10a74526fb0f3c7 

翌文永四年(1267)、西園寺公相が父・実氏に先立って死ぬことを予言する些か気味の悪い場面で、後嵯峨院の御前に伺候する重臣の中に、後深草院二条の父、「久我大納言雅忠」が登場します。
雅忠は公相の娘・嬉子が中宮となって以降、ずっと中宮大夫を勤めていたのですが、嬉子は公相死去をきっかけに内裏を退出し、西園寺家は当面外戚となる可能性を失います。

「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d3b8d098bb9a94b965e39d20708597
 
他方、亀山天皇の洞院佶子への寵愛は篤く、文永四年、佶子は皇子(後宇多天皇)を産みます。
ただ、この目出度いはずの場面で、『増鏡』作者は奇妙な記事を載せています。

「巻七 北野の雪」(その13)─皇子(後宇多天皇)誕生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0b6e7187e80926aa482304fad6478bc7
「巻七 北野の雪」(その14)─「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dda16ba09f5989fc63ee20f418bcb06

そしてこの洞院家にとっては不愉快な記事で「巻七 北野の雪」は終るのですが、巻七では巻六までの西園寺家賛美の色合いが褪せて、西園寺本家と洞院家の対立が強調されています。
なお、両家の対立の陰で摂関家に関する記述は従前に比して更に減少しており、九条道家の没落後に摂関家の存在感が現実に薄れていたとはいえ、ちょっと扱いが極端なような感じがします。
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