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「巻十 老の波」(その16)─蒙古襲来(弘安の役)

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)23時18分8秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p277以下)

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 その頃、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎ立ちぬ。色々様々に恐ろしう聞ゆれば、「本院・新院は東〔あづま〕へ御下りあるべし。内・春宮は京にわたらせ給ひて、東武士〔あづまぶし〕ども上〔のぼ〕りてさぶらふべし」など定めありて、山々寺々の祈り数知らず。伊勢の勅使に経任〔つねたふ〕の大納言参る。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて真読の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本〔ひのもと〕のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」となほ諫め聞えさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。
 東にも、いひ知らぬ祈りどもこちたくののしる。故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度〔たび〕はいとにがにがしう、牒状〔てふじやう〕とかや持ちて参れる人などありて、わづらはしう聞ゆれば、上下思ひまどふこと限りなし。
-------

【私訳】その(弘安四年の)頃、蒙古が襲来するとかいって、世の中が騒ぎ立った。いろいろさまざまに恐ろしい風聞が立つので、
「本院・新院は関東に御下りになるであろう。今上と東宮は京においでになって、関東武士が上洛して警固するであろう」
などとうわさされて、山でも里でも寺院でのご祈禱は数知れないほどである。伊勢神宮への公卿勅使に経任の大納言が参る。新院も八幡へ御幸されて、西大寺の長老を召されて真読の大般若供養をなさる。伊勢大神宮への御願文には、
「私の御代にこのような乱れが起こって、本当にこの日本が滅亡するようなことになるのでしたら、(代わりに)我が命を取り上げてください」
との旨を御自身でお書きになったのを、大宮院が
「そんなことを言われてはなりません」
と御諫め申し上げたのは(母のお気持ちとしては)本当にもっともなことであった。
 関東でも、言葉にならないほどの祈祷を大騒ぎして大規模に行った。故後嵯峨院の御代にも、五十の御賀の試楽のころ、このようなことがあったものの、程なく静まったものであったが、今回は本当に苦々しい事態となり、蒙古からの牒状とかいうものを持って参った者もあって、たいそう面倒なように思われたので、上下の人々が限りなく思案に暮れたのであった。

ということで、文永十一年(1274)の蒙古襲来(文永の役)以降、再度の襲来に備えて幕府は継続的に対策を取っていた訳ですが、『増鏡』作者はそんなことに何の関心も示していません。
また、現代人から見て非常に奇妙なのは、「故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを」となっていて、比較の対象は後嵯峨院五十賀試楽が中止となった文永五年(1268)であり、現実に蒙古襲来のあった文永十一年ではないことです。
実際、『増鏡』の記述の分量も、前者の方が少し多くなっています。
といっても、前者も僅かに、

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 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b5e845e6c301a87dc455fe53dd5a8ee

とあるのみで、後者に至っては、後宇多天皇の即位式に関連して、

-------
十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94f3d9b355824ec3f1380faeac8dddb7

とあるのみで、どんぐりの背比べ程度の違いしかありません。
弘安の役関係の記事はもう少し続きますが、いったんここで切ります。

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「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)19時39分32秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p275以下)

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 弘安も四年になりぬ。夏頃、後嵯峨院の姫宮隠れさせ給ひぬ。後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなくうつくしうおはしまして、「人の国より女の本〔ほん〕をたづねんには、この宮の似絵〔にせゑ〕をやらん」などぞ、父みかども仰せられける。御乳母〔めのと〕隆行の家におはしましける程に、御乳母子〔めのとご〕隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへいできて、これも御うみながし、にはかに失〔う〕せさせ給ひにけるとぞ聞えし。
-------

【私訳】弘安も四年(1281)になった。夏ごろ、後嵯峨院の姫宮が亡くなられた。後堀河院皇女で神仙門院と申された女院の御腹であったので、故院もほんとうにひと通りでなく大事に養育されておられたのである。御容姿も比類なく美しくいらっしゃって、「異国から美しい女性の典型を求めてきたら、この姫宮の肖像画を贈ろう」などと父院もおっしゃっておられた。御乳母の四条隆行の家におられた間に、御乳母子の隆康がこっそり参りなどしたため、(妊娠というような)浅ましい御事まで起こって、その結果、御流産で急に亡くなられたということであった。

ということで、「巻十 老の波」に入ってからは亀山院の後宮の場面以来、久しぶりの「愛欲エピソード」です。
この場面の関係者の生没年を整理すると、

後堀河院(1212-34)
後嵯峨院(1220-72)
神仙門院(1231-1301)
四条隆行(1224-85)
四条隆康(1249-91)

ということで、後嵯峨院が十一歳下の神仙門院と通じて姫宮が生まれたとして、それが仮に神仙門院が二十代の頃だとすると、姫宮は1250年代くらいの生まれです。
そして、その姫宮と四条隆康が通じて、弘安四年(1281)に姫宮が流産で死亡するということは、年齢だけを考えるならばそれほど無理な話でもありません。

体子内親王(神仙門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

しかし、井上氏の「解説」によれば、

-------
 神仙門院と後嵯峨院の私通は諸書にみえず、その間の一皇女のことも同様である。『本朝皇胤紹運録』にもこの皇女はみえない。後深草院や亀山院が異母妹と通じたことなどから推測しても、院と女院との私通はありそうなことである(院と女院は再従兄妹)。ここに書かれている話も、いかにもリアリティがある。その結果、生まれた皇女が今度は乳母子と通じてお産で没したというようなことも、ありうるのであろう。
 この辺は、鎌倉期貴族社会の退廃相をよく示しているが、『増鏡』に記されている事例も、(『とはずがたり』を思い浮かべればなおさらだが)、まったく氷山の一角にすぎないのだろう。
-------

とのことで(p277)、『増鏡』以外に一切の記録がないのですから、結局のところ『増鏡』をどこまで信頼できるか、という話になります。
井上氏の思考パターンは、

「後深草院や亀山院が異母妹と通じたこと」は確定的な歴史的事実
  ↓
従って後嵯峨院と神仙門院の(再従兄妹の)私通は「ありそうなこと」
  ↓
この場面も「いかにもリアリティがある」
  ↓
「その結果、生まれた皇女が今度は乳母子と通じてお産で没したというようなことも、ありうる」
  ↓
「『とはずがたり』を思い浮かべればなおさら」、この事例は「まったく氷山の一角にすぎない」

というものですが、出発点の後深草院が異母妹の前斎宮と通じたことは『とはずがたり』と『増鏡』にしか記されておらず、また、亀山院が異母妹の五条院と通じたことも『増鏡』にしか記されていません。
とすると、井上氏の「鎌倉期貴族社会の退廃相」に関する認識は、特に論理的な裏付けはなく、『とはずがたり』と『増鏡』の周囲をグルグル廻っているうちにどんどんイメージが増幅され、次第に強固となって、とうとう巨大な「氷山」を仰ぎ見るような段階に達しただけのような感じもします。
ま、別に私もこの場面の記述が虚偽であると主張したい訳ではないのですが、他の史料に一切現れないこれほどの秘事を『増鏡』作者はどうして知ったのだろうか、という疑問は生じてきます。
そして、『とはずがたり』と『増鏡』の作者が同一人物ならば、母方の四条家一族の内情は容易に知ることができそうなので答えは簡単ですが、二条良基や丹波忠守を『増鏡』作者とする場合には、いかなる経緯でこの情報を知ったのかがそれなりの問題になりそうです。
なお、四条家といっても、もちろん一枚岩ではありません。
四条隆行(1224-85)は後深草院二条の祖父・四条隆親(1203-79)の兄である隆綱(1189-?)の子なので、隆親にとっては甥であり、二条と極めて親しい善勝寺大納言隆顕(1243-?)にとっては従兄弟となります。
四条一門では隆綱より十四歳も年下の隆親が本家筋となったために、隆綱流と隆親流の間で潜在的な対立が想定される上に、隆親によって四条家を追い出された隆顕にとって、隆行・隆康父子は好意的に見ることのできる存在でもなさそうです。
とすると、『増鏡』作者が『とはずがたり』と同一人物であれば、隆行・隆康父子の秘密を入手するルートも、それを暴露する動機も存在しそうです。

それにしても『増鏡』作者の後嵯峨院皇女に対する視線は本当に冷ややかですね。
まず、「巻八 あすか川」で月花門院に源彦仁と園基顕が通ってきて、堕胎の失敗で亡くなったことが記されます。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fefb8903614166d0eee9c4963c36217

その後、「巻九 草枕」の半分を費やして後深草院と前斎宮の密通、ついで西園寺実兼・二条師忠と前斎宮の奇妙な三角関係が描かれます。

「巻九 草枕」(その6)─前斎宮と後深草院(第一日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e25b0fbfedcc25a407c202e61e161ddf
「巻九 草枕」(その7)─前斎宮と後深草院(第二日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c7c9e9918899aa55f64744b59d9a3bf9
「巻九 草枕」(その8)─前斎宮と後深草院(第二日の夜)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7aee4690e5603b5bda8b5c5d5736bd5
「巻九 草枕」(その9)─前斎宮と後深草院(第三日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a58f07bed7b0300dbac5204ce193a25
「巻九 草枕」(その10)─前斎宮と後深草院(第三日の夜)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b66ecfbbbb8585e29499abc8f9d4725
「巻九 草枕」(その11)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(前半)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4a9cc3e7d2b0873f824e27bff3f0000
「巻九 草枕」(その12)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(後半)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac8642bb8d6f5b41db85c5fc6abcb3ad

ついで「巻十 老の波」にはいると、今度は亀山院と五条院の密通ですね。

「巻十 老の波」(その4)─五条院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2763b18b7676761c25266abb46aba941

そして今度は神仙門院腹とあるだけで名前も不明な姫君ですが、さすがに後嵯峨院皇女に関するこの種のエピソードはこれで最後です。

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「巻十 老の波」(その14)─継仁親王の誕生と死

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)12時56分54秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p273以下)

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 かくて年月変はりぬ。そのころ新陽明門院またただならずおはしますと聞えし、五月ばかり御気色〔けしき〕あれば、めづらしう思す。内々、殿にてせさせ給ふに、天下の人々参り集ふ。前の度〔たび〕生まれさせ給へる若宮は、隠れさせ給ひにしを、新院本意〔ほい〕なしと思されけるに、又かくものし給へば、めでたう思ふ様なる御事もあらばと、今より思しかしづくに、いとかひがひしう若宮生まれさせ給へれば、限りなく思さる。
 八月みこの御歩〔あり〕きぞめとて、万里小路殿に渡らせ給ふ。唐庇の御車に、後嵯峨の院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや、御母代〔ははしろ〕にてそひ奉り給ふ。
また三条内大臣公親の御女〔むすめ〕、内の上の御乳母〔めのと〕なりしも、めでたき御あえものとて、御車に二人乗り給ふ。女院は院の上一つ御車に、菊の網代の庇に奉る。宮の御車にやり続けて、よそほしくめでたき御事なり。
-------

【私訳】こうして年月が変った。そのころ、(亀山院妃の)新陽明門院がまた御懐妊であられるということであったが、(弘安二年の)五月頃、お産の御様子があるので、亀山院は嬉しく思われた。内々、女院の御所でなさるということであったが、天下の人々が参集した。以前にお生まれになった若宮(啓仁親王)はお亡くなりになったのを、亀山院は残念に思われていたが、またこのように御懐妊となったので、めでたくご希望通りの事があればと、今から女院を大切になさっていたところ、まことにその甲斐があって若宮(継仁親王)がお生まれになったので、この上なくお喜びになる。
 八月、皇子の御歩き初めということで、万里小路殿へお渡りになる。唐庇の御車に、後嵯峨院の更衣腹の姫宮で、聖護院覚助法親の御同腹とかいう方が、御母代りとして付き添い申し上げた。また、三条内大臣公親の御娘で、今上(後宇多)の御乳母であった方も、縁起の良いあやかり者として、御車に二人お乗りになった。女院は亀山院とご同車で、菊の紋をつけた網代車にお乗りになる。若宮の御車に続けて、美々しく立派な御事である。

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ということで、『増鏡』作者の新陽明門院(1262-96)に対する関心は非常に強く、その登場はこれで三度目です。
最初は「巻九 草枕」の末尾に、文永十二年(建治元年、1275)、十四歳で女御として入内した近衛基平の姫君が直ぐに新陽明門院の女院号宣下を受け、翌年、啓仁親王を産んだとあります。
ついで「巻十 老の波」に入ると、亀山院が亡き皇后宮を慕うあまり、新陽明門院とは疎遠になったことが(事実かどうかはともかく)記されます。

「巻九 草枕」(その13)─新陽明門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92111b1b91f8cc8b6302a08c08f325fc
「巻十 老の波」(その3)─亀山院の皇后追慕・二条内裏炎上
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1da48f8875f759c3b291eb508c367ad

そして、ここで啓仁親王(1276-78)の夭逝と継仁親王の誕生となるのですが、「御歩きぞめ」のめでたい雰囲気も直ぐに消えてしまいます。

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 その頃、倹約行はるとかや聞えし程にて、下簾〔したすだれ〕短くなされ、小金物〔こかなもの〕抜かれける。物見る車どものも、召次〔めしつぎ〕寄りて切りなどしけるをぞ、「時しもや、かかるめでたき御事の折ふし」などつぶやく人もありけるとかや。この宮も親王の宣旨ありて、いとめでたく聞えし程に、あくる年九月また隠れさせ給ひにし、いと口惜しかりし御事なり。
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【私訳】その頃、倹約令が出されたとのことで、簾の下の布を短くされ、飾り金具を除かれたりした。拝観の車などのそれらも、召次が寄って来て切りなどしたのを、「他の機会もあろうに、こういうめでたい御事の折に切るなんて」などとつぶやく人もあったという。この宮も親王宣下があって、たいそうめでたく思い申しているうちに、翌年九月、また亡くなられてしまったのは、何とも残念な御事であった。

ということで、継仁親王(1279-80)も夭逝してしまう訳ですね。
二人の親王が亡くなった弘安三年の時点で、新陽明門院はまだ十九歳です。

新陽明門院(1262-96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BD%8D%E5%AD%90

なお、継仁親王の「御歩きぞめ」の場面で、「御母代」として登場する「後嵯峨の院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや」という女性は琵琶の名手の藤原孝時女・博子のことですね。
五条院の母であり、従って「いはぬ事」の姫君の祖母となります。

「刑部卿の君」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1142af01bd5c7e08644f57dbf5f2558
「巻十 老の波」(その4)─五条院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2763b18b7676761c25266abb46aba941

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「巻十 老の波」(その13)─続拾遺集の撰進

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)10時36分26秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p270以下)

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 この御代にも又勅撰の沙汰、一昨年〔をととし〕ばかりより侍りし、為氏大納言えらばれつる、この師走〔しはす〕にぞ奏せられける。続拾遺集と聞ゆ。「たましひあるさまにはいたく侍らざめれど、艶〔ゑん〕には見ゆる」と、時の人々申し侍りけり。続古今のひきうつし、おぼろけの事は、立ち並び難くぞ侍るべき。
-------

【私訳】この御代にもまた、勅撰集を撰ぶべき命が一昨年(建治二年)ころからあって、為氏の大納言の撰ばれた集が、この(弘安元年の)十二月に奏覧された。『続拾遺集』とのことである。「この集は力強い精神に満ちている訳ではなさそうだが、優美には見える」と、当時の人々は評した。『続古今集』を引きうつしたもので、なみなみのことでは、それには及ばないことであろう。

ということで、非常に厳しい批評ですね。
『尊卑分脈』を見ると、二条為氏に「建治二年七月廿二日、依亀山院々宣、撰新続拾遺集、弘安元年十二月廿七日奏覧之」とあり、下命者は治天の君たる亀山院です。
井上氏は、

-------
 為氏は父為家の独撰した『続後撰集』を手本にしたと思われ、父が撰者ではあったが、その意志があまり通らなかった『続古今集』に対しては冷たかったとも推測され、歌風も、『続後撰集』の平淡・優美なものを庶幾したと見られる。しかしここも歌壇史的な見方を踏まえた歌風論でいっているのではない。『続古今集』と比べると、本質的に歌風の相違はなく、しかも平弱である、と把握し、それが、後嵯峨院文壇の絢爛たる態勢の中から生まれたものではないから、やはり見劣りする、という評価である。
-------

と言われています(p272)。
正直、私は歌壇史も歌風の違いもよく分からないのですが、『増鏡』に関連する事実だけを指摘すると、『増鏡』作者は後嵯峨院政下での最初の勅撰集、即ち藤原定家の息子の為家が単独で撰進し、建長三年(1251)十二月に奏覧となった『続後撰集』を全く無視しています。
文字通り、一言も触れていません。
他方、当初は為家に撰集が命じられ、その後、御子左家に敵対的な真観らが撰者に追加された『続古今集』については好意的な記述をしており、その評価の態度はこの場面での記述と一貫していますね。
『増鏡』作者を御子左流の二条家関係者とする少数説がありますが、このあたりの記述を見ると、それはちょっと無理ではないかと思われます。

「巻七 北野の雪」(その10)─続古今集
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95dba62ef98dd9a1836c1161e16bc0f8

二条為氏(1222-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E6%B0%8F

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2月16日の投稿の修正

2018-04-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月27日(金)09時52分10秒

『増鏡』の「女房蹴鞠」の場面に対応する『とはずがたり』の「女房蹴鞠」の場面に関し、2月16日の投稿に誤りがあったので修正しておきました。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その2)─女房蹴鞠
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef

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