夏に白山に登ったのは登山が目当てというより、白山信仰の本拠地に関心があったからで、山登りは手段というかおまけというか……その勢いが止まらず、秋に大山(雨降山)の阿夫利神社へ這いあがったところ目を引く立札があった。
大山修験(山伏)は、山中で行う修行の中で、白山神社を拝するのがその一過程であった。当社は加賀の国、白山神社と関係深く、大山寺開山(752年)前に建立されたといわれるーーー大山観光青年専業者研究会。というわけで、要するに神奈川の大山に寺が開かれる前、そこも白山神社だった。
白山の頂上を起点に、修験者が各地の山に伏し、白山信仰を広めた飛鳥奈良時代の痕跡が神奈川の大山に今も残されているのを見て、金沢(加賀)だけではなく福井(越前)や岐阜(美濃)からも修験者が分け入った白山の全容が思い浮かび、加賀と越前の馬場が神社になっているのは見たことあるから美濃馬場がいちど見たくなった。
越前馬場は平泉寺白山神社、加賀馬場は白山比咩神社、美濃馬場は長滝白山神社として伝わり、前2社は訪ねたことがあるので、岐阜から入る禅定道の美濃馬場……いまの長滝白山神社にも行ってみよう。ただそれだけの話なんだけど、きっかけや動機を説明しはじめたら思ったより長くなってしまった。
山登りというよりも電車移動の道のりで、下調べだと朝9時の新幹線で東京から名古屋へ。10時48分発の特急ひだに乗り換えて美濃太田へ。11時34分発の長良川鉄道に乗り換えると36駅目、2時間ほどで白山長滝駅につき、駅から3分で美濃馬場の長滝白山神社に詣でることができるので、14時前にお参りしたら美濃太田まで退却して泊まる計画だった。
予定通り13時35分に目的地へ着いた。写真の右端に写ってる単線のホームが白山長滝駅。ご覧の通り神社に隣接しており、他に何もない。食事をする場所もない。そんなことだろうと思って家からパンを持参し、ここまでの移動中に食べた。長良川鉄道の2時間はトイレが車内になかったので、まず公衆トイレを探して用を果たす。
神仏習合しており長滝寺と並び立つ。白山中宮長滝寺は(と看板にある)霊峰白山を開山した泰澄が、奈良時代養老年間に創建した山岳寺院であった。平安時代天長9年(832)加賀馬場白山本宮・越前馬場白山中宮平泉寺と並ぶ白山三馬場の一つ美濃馬場として、白山へ登拝する美濃禅定道の拠点となっていった……よし、看板の説明はこれまでに見たのと食い違いがない。
拝殿の手前に小さな四阿がある。なんだろうと近づいてみると石灯籠があり、鎌倉時代の正安4年(1302)伝燈大法師覚海の寄進により建てられたと銘記されているので、文永8年(1271)の火災後に白山中宮長滝寺を再建する際に奉納されたものだという。国重要文化財に指定されたから、屋根がつけてあるのだろう。
細部の手法が優れ、装飾の善美を尽くしており、制作年代は明確、石造美術上また白山信仰上の貴重な資料であると看板に書いてあるが、そんなものだろうか。般若寺型に類するものと見られ、基礎と中台は六角形、優美な反転をもつ12枚の蓮弁で包まれた請蓮華と伏蓮華があると書いてある。建物は火災で消失したから、石灯籠ぐらいしか見るものがないと理解すべきか。
中尊寺ハスも見るべきものらしい。そういえば、越前馬場は平泉寺白山神社といったから、平泉中尊寺となにか関係あるのかと思ったら、奥州藤原氏は霊峰白山を厚く崇敬していたというではないか。三馬場には秀衡寄進の仏像や伝承が数多くあるというし、やはり奥州藤原氏は中央にまつろわぬ勢力の栄えるところだった。
古代ハス自体は、中尊寺に残っていた種をかの地で平成10年にまいたら育ったのを、平成16年に株分けしてもらって、この地でも育てているということだが冬なので枯葉ぐらいしか見当たらない。古いハスの種をまいたら花が咲いたという話は他の土地でも聞いたことがある。あれはたしか、低湿地ゆえ秀吉に水攻めされた備中高松城址かな?
三馬場を解説する白山奥宮の山小屋のパネルで、美濃馬場の写真のアングルがおかしかったのは、拝殿の奥の本殿を横から撮った写真だったからのようだ。あれでは意味がわからない(上から5枚目の写真)。こうして訪ねてきたおかげで疑問が解けた。奥州藤原氏が山伏文化につながることも理解できた。納得したので長良川鉄道をまた美濃太田まで戻る。なぜか行きは2時間だけど帰りは2時間半かかる。列車というか一両だから、単車? に乗ってばかり。師走は寒いからこれでいいのだ。遠ざかるにつれて単車? の後方に冠雪した白山らしきものが見えた。
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