ボヘミアのバルビゾン派

 

 
 ユリウス・マジャークとアントニーン・ ヒトゥッシは、チェコ風景画の二大巨匠であるらしい。1890年代の新しいチェコ絵画を担った画家たちよりもひとまわり古い世代に当たる。
 このうち、アントニーン・ ヒトゥッシ(Antonín Chittussi)のほうは、現地チェコにて、俄然、相棒のお気に入りとなった画家なので、私も印象に残っている。

 ヒトゥッシの絵は素直で分かりやすい。ボヘミア・モラビア高地に惹かれ、その風景を描いた彼の絵には、チェコというよりもフランスの雰囲気が漂っている。それは、印象派前夜、パリを訪れた彼が、バルビゾン派の絵に感動して以降、その信条にのっとって戸外の大気のなかで描くようになったからではある。
 だが、それだけではない。ヒトゥッシは多分、フランスを好き、フランスと性が合っていたのだと思う。彼は生涯、気管支炎を患い、ともすれば欝状態に陥っていた。が、プラハ、ウィーン、ミュンヘンと、北方のメランコリックな気候では出会えなかった陽光の色彩と、平易で闊達な筆捌きとを、パリにて見出したとき、ヒトゥッシは己を得た気持ちになったのだと思う。

 パリこそ我が芸術生涯最良の都! 彼はパリにアトリエを構え、美術館やら展覧会やらを熱心に訪れて絵を学ぶ一方で、そこに自作の絵を売り込んで成功を収める。パリの街路を飛び出し、インスピレーションを求めて、バルビゾン、フォンテーヌブロー、さらにはブルターニュやノルマンディーへ。燦々と陽の降り注ぐフランスの田園を描くのが、彼は本当に好きだったに違いない。

 他方、生まれ故郷のボヘミアの風景も、心から愛していたのだろう。フランスから帰国後は、陽光いっぱいに輝く大気のなかのボヘミアの田園を描き出した。で、ヒトゥッシは今日、新しい手法をチェコ風景画の伝統に取り入れた、チェコ印象派の先駆者として評価されている。

 が、彼は、故郷ボヘミアでは、フランスほどには画家として評価を受けなかった。フランスでそうしたように、インスピレーションを求めて、ボヘミアの田舎の村々へと頻繁に取材旅行に出かけた結果、却って健康状態までも悪化する。
 何もかもが、フランスでのようにはうまくいかない……欝が進行し、外的な接触を絶って孤独に、誰からの理解も拒絶して生活する。最後に、人生の送別会を自ら開いて、その数週間後に死去した。享年44歳。

 画像は、ヒトゥッシ「ヴルタヴァ川の渓谷」。
  アントニーン・ ヒトゥッシ(Antonín Chittussi, 1847-1891, Czech)
 他、左から、
  「セーヌ川の舟」
  「風車のある風景」
  「ボヘミア・モラビア高地」
  「日没の風景」
  「冬景色」

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夢幻のモラビア情景

 

 
 チェコの風景画家、アロイス・カルヴォダ(Alois Kalvoda)は、一言解説では、チェコ近代絵画における最も優れた風景画家の一人、とされている。私の旅ノートにも、二重マルがついている。

 印象派の画家として括られているのだが、カルヴォダの印象主義は多分にエモーショナル。この人の絵には、ほんのシンプルなモチーフしかない。白樺がひょろりと立ち並ぶチェコの田園。それを、自然そのものが持つ以上にデコラティブな色彩を与えて、描き出す。色彩自体は明瞭で快活なのだが、画面全体のムードは微妙におぼろで、刹那の夢見心地なフィーリングを醸している。
 カルヴォダが取り上げた風景の最も傑出したイメージは、独特の民俗的伝統文化の残る、スロバキア国境に程近い南モラビア、スロバーツコ地方の情景なのだという。

 略歴を記しておくと、ブルノ近郊シュラパニツェの生まれ。貧しい家庭で、母は娘のように若く、子沢山。おまけに父は早くに死んでしまった。
 カルヴォダは絵が得意な一方、勉学には熱が入らない子だった。これじゃあ、家族の理解がなかったところで絵の道に進むのは当然。で、初恋で失恋したのを機に、画家になろうと決意、プラハに上京する。
 アカデミーでは、チェコ風景画の巨匠ユリウス・マジャーク(Julius Mařák)に師事。マジャークのロマン派的な、リリカルでメランコリックな画風から大いに影響を受けるが、ほどなく脱却し、印象派、しかも独特に装飾的な印象派へと、様式を変える。

 奨学金を得て、パリ、さらにミュンヘンに留学し、同地で、当代の新しい絵画を吸収する。帰国後は、考えるところがあったのだろう、プラハに自前の美術学校を設立(のちにビェハジョフ(Běhařov)の古城に移転)し、若い世代を発掘した。そのなかには、ヨゼフ・ヴァーハル(Josef Váchal)やマルティン・ベンカ(Martin Benka)らがいる。

 あまり詳しくは分からないけれど、出会えてよかった画家の一人。

 画像は、「白樺」。
  アロイス・カルヴォダ(Alois Kalvoda, 1875-1934, Czech)
 他、左から、
  「丘の村」
  「小窓」
  「陽光の小道」
  「ハンノキの木叢」
  「冬の小川」

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ギリシャ神話あれこれ:山羊脚のサテュロス

 
 相棒はサテュロスとサトゥルヌスとをすぐに混同する。山羊脚をした半人半獣の絵に出くわすと、
「むむッ! これってサテュロスだったっけ? サトゥルヌスだったっけ?」
 毎度、同じ疑問に立ち返り、言語を媒介し認識をたどって、正しい記憶に到着し、一人納得する。
 
 サテュロス(サティール)というのは山野に群れる精霊で、牧神パンと同じような外見と性格をしている。
 つまり山羊の毛深い脚と蹄と尾、顎髭と角(のような突起)があって、山野に住まい、ふざけたり戯れたりして暮らしている。酒を飲んでは酔っ払い、歌い騒ぎ、跳ね回り、踊り狂う。悪戯好き、女好きで、その男性器は常に興奮し、欲情と好奇心に駆られてニンフやマイナスたちを追いまわすが、襲ったところで概ね失敗する。「サチリアジス(男性色情症)」というのはサテュロスに由来する用語(ちなみに、「ニンフォマニア(女性色情症)」はニンフに由来する)。

 こんな精霊だから、酒神ディオニュソスに随伴し、マイナス(=狂乱するディオニュソス信女)らとともに、泥酔してどんちゃん騒ぎながら列をなして付き従う。
 プロメテウスが天から持ち帰った火をサテュロスが見つけ、乱舞する炎を自分の仲間と思ったか、有頂天になってキスをして、アチチと髭を焦がしたというエピソードがある。こんなふうなお馬鹿なお調子者。
 素朴で野卑で醜悪で、小心で臆病で、思慮浅く本能的で、陽気で剽軽で滑稽な野生児。徹頭徹尾脇役で、場を引き立てはするが基本的には無用で、行なうことは概ね愚行ばかり。悪さはしても、とことんまで自ら強く深く悪に走ることはできない、憎めないけれどお粗末な存在。
 
 こんな山羊脚のサテュロスは、キリスト教時代には悪魔的な精霊になった。神界に、赤ちゃん天使プットたちがプヨプヨと群れ飛んでいるように、悪魔界では、仔サテュロスたちがキャッキャッ群れ騒いでいる(多分)。
 「リボンの騎士」で、魔王の国で魔女の娘ヘケートの結婚の宴があって、ヘケートに頼まれて魔王らを騙して喜んでいたのは、酔っ払った仔サテュロスたちだった。

 画像は、カバネル「ニンフとサテュロス」。
  アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889, French)

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ギリシャ神話あれこれ:牧神パン

 
 子供の頃、パンとサテュロスとの区別がつかなくて困った。今でもあまりつかない。
 どちらも山羊の角と脚を持つ半人半獣の姿をしていて、粗野で陽気で享楽的。歌好き、踊り好き、女好きで、山野を駆けめぐってはニンフたちを追いかける。
 サテュロスというのは、そうした山野の精霊を指す総称で、パンの名が指すのはれっきとした一人の牧神。……らしい。

 下半身は毛むくじゃらの山羊、頭にも山羊の角(のような突起)、おまけに顎には長い山羊鬚を生やした、年寄り臭い容姿の異形の半獣神、牧神パン(ファウヌス、フォーン)。
 彼のこの奇怪な姿は生まれつきのもので、と言うのも、伝令神ヘルメスが山中で羊を飼っていた際、土地の王の娘を見初めて、山羊の姿で接近し交わったため。産まれ落ちた赤ん坊のあまりの姿に仰天した乳母は、悲鳴を上げて逃げ出してしまったという。
 が、父ヘルメスに似て陽気な子で、大喜びのヘルメスは、パンを獣毛皮にくるんでオリュンポスへと連れて行き、我が子の誕生を披露した。その変ちくりんな姿はすべての神々、特に酒神ディオニュソスを大いに喜ばせ、「すべての」を意味するパンという名がつけられたのだそう。

 パンはアルカディアの山中に棲まい、彼を拒んだシュリンクスが姿を変えた葦で作った笙笛を手挟み、同じく彼を拒んだピテュスが姿を変えた松で編んだ冠をかぶった格好で、山野を逍遥してはニンフたちにちょっかいを出す。しばしばディオニュソスにも付き従って、淫蕩な性豪ぶりを発揮し、あらゆるマイナス(狂乱したディオニュソス信女)たちと交わった。
 明るく朗らかで快活な反面、気性が荒く、気難し屋。特に寝起きが悪く、岩陰で昼寝をしているところをうっかり起こそうものなら、不機嫌になるどころではない。突如、不相応に激怒して、山々を轟かす雄叫びを上げ、これを聞く者、大抵は羊飼いたちや羊たちを恐慌に陥れた。この“パニック”という現象はパンの名に由来する。

 オリュンポスの饗宴の真っ只中、突然、火を噴く百頭と大蛇の尾を持つ怪物テュポンが乱入した際、今度は自分がパニックになったパンが、慌てふためいて、上半身は山羊だが下半身は魚に変身して、川へと飛び込んで逃げた、そのときの姿が、山羊座なのだという。

 画像は、シュトゥック「パン」。
  フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck, 1863-1928, German)

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ギリシャ神話あれこれ:盲目の予言者テイレシアス(続々)

 
 さすが神に与えられた長寿は長い。カドモスの建国後から、アルゴス七将のテバイ遠征、七将の子らによる復讐戦の時代まで、人間離れした長きにわたって、テイレシアスはテバイの予言者として君臨する。 

 テイレシアスには、女だった時代、ヘラ神の女司祭を務めながら、自ら生んだ(?)マントという娘がいる。予言の力というのは遺伝するようで、マントもまた、父よりも優れた予言者となり、マントの息子モプソスも、ギリシア軍の予言者カルカスを負かすほどの予言者となった。

 エピゴノイの戦い(テバイ遠征の七将が敗れた十年後、彼らの子らが復讐戦に再びテバイを攻撃し勝利した)の後、マントは最高の戦利品として、アポロン神に献上するためデルフォイへと連れられる。娘に随行したテイレシアスは、その途中、ティルプサの泉の水を飲んだのが理由で、死んだという。

 別伝では、テイレシアスが盲目になったのは、沐浴中のアテナ神の裸体を見てしまったためともいう。彼の母親であるニンフのカリクロが、彼の眼を元に戻してくれるようアテナに頼んだが叶わず、代わりに耳を清められて、鳥の言葉を理解する能力を得たのだとか。

 画像は、H.シングルトン「マントとテイレシアス」。
  ヘンリー・シングルトン(Henry Singleton, 1766-1839, British)

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