汎愛について

 
 学校でのいじめが社会問題化しているが、もし学校側が「いじめはない」と公言するなら、その学校はいじめへの対応がずさんだということになるという。学校というところでは、いじめは必ず存在するから。
 だから、いじめがあることを前提に、それをチェックし、初期段階で確実に潰す一方、いじめがいかに罪悪かを指導・教育するシステムを作り上げるのが、最も合理的な対応なのだという。

 同じようなことは、抑圧一般についても当てはまるように思う。
 人間社会において、抑圧(他者の自由に対する否定)は常に存在することを前提に、抑圧という行為がいかに人間の尊厳を蹂躙するか、それに加担する人間の人間的自然を破壊するか、という意識を浸透させ、些細な抑圧に対しても実際に対処できれば、抑圧のシェアは減り、その分、自由のシェアは増えると思う。

 さて、最近眼にしたのだが、互いを許し合う心、つまり汎愛、を持つことが、社会の諸悪をなくす根本的な解決の方向だ、という主張がある。
 許し合う心。一見、立派な主張に見える。が、正直、私には自己陶酔的な偽善としか映らない。

 私なら反対のことを言う。許さない心を持つことこそが大事だ、と。

 To be continued...

 画像は、ブーグロー「兄弟愛」。
  ウィリアム・アドルフ・ブーグロー
   (William Adolphe Bouguereau, 1825-1905, French)


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ギリシャ神話あれこれ:心の愛(続々)

 
 すると姉たちは、ではやはり神託どおりの怖ろしい怪物に違いない、多分大蛇か何かだ、いずれ食われてしまう前に正体を確かめ、もし怪物なら殺してしまいなさい、と吹き込んで、短剣を手渡す。

 今やプシュケは、自分の姿を見てはならないと言う夫に対して、激しい疑念を持つようになる。で、ある夜とうとう、自分の隣に横たわる夫の寝息が聞こえるのを確かめてから、燭台を手に、そっと夫を窺う。
 と、明かりに照らし出されたのは、背に翼こそ生えてはいるが、怪物どころではなく、この上なく美しいエロス神の、安らかに眠る姿だった。
 
 プシュケが思わず覗き込むと、蝋燭の蝋の滴がポタリとエロスの肩に落ちて、エロスはハッと眼を醒ます。事の次第を悟ったエロスは、妻の不信に腹を立て、愛は猜疑ある心に宿ることはできないのだ、と言い捨てて、飛び去ってしまう。
 
 エロスを追って外に飛び出したプシュケが、辺りを見回すと、もはや花園も宮殿も、跡形もなく消えてしまっていた。

 ところで、妹がエロスに捨てられたと知った姉たちは、今度は自分たちがエロスの宮殿に行こうと、山頂から飛び降りて、西風に受け止められずに命を落としたのだとか。
 ……二番煎じが成功した試しはない。

 To be continued...

 画像は、ドニ「自分の秘密の恋人がクピドであることを知るプシュケ」。
  モーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870-1943, French)

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シンドラーのリスト

 
 「シンドラーのリスト(Schindler's List)」を観た(監督:スティーヴン・スピルバーグ、出演:リーアム・ニーソン、ベン・キングズレー他)。

 最近、相棒は戦争映画ばかり持ってくる。国民投票法案が可決されて、近い将来、憲法改悪が必至となった情勢、過去の戦争の現実をより知っておくほうがよい、って意図かも知れない。が、観ていて、もー悲しいやらつらいやら。
 ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大虐殺)の事実は以前から知っているが、私の知識は本(と、手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」)によるもので、思えばこれだけ映像に触れたのは初めてだったような。映像の表現力というのは、それはそれで圧倒的で、まいった。

 舞台は、ナチス・ドイツ侵攻後のポーランドの古都クラクフ。ナチス党員でもあるドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、戦争というビジネスチャンスに乗じて、野心満々、巧みな話術で軍幹部に取り入り、有能なユダヤ人会計士シュターンを引き入れて、工場の経営に乗り出す。
 ほとんど無償の労働力という理由でシュターンが斡旋したゲットーのユダヤ人を雇用し、多分シュターンの働きによるのだろうが、事業は軌道に乗る。一方、ナチスによるユダヤ人迫害はエスカレート。ゲットーの解体、強制収容所への収容、戦況の悪化に伴う、収容所の閉鎖とアウシュヴィッツへの移送。その間、ユダヤ人たちは次々と殺害されていく。
 シンドラーは、故郷チェコに労働者ごと工場を移設するという理由で、話術と賄賂で千人以上のユダヤ人を収容所長ゲートに要求するためのリストを作る。

 シンドラーは熱血的な英雄ではない。酒好き女好きの伊達男。戦争で金を儲け、そのスタンスを(見かけ上は)最後まで崩さない。ユダヤ人を救うにも金を使う。
 が、あまりに簡単に人間が殺されていくなか、どうにも引っ込みがつかなくなったのだろう。

 シンドラーが決断を下す前には、赤い服の少女が登場する。この映画はモノクロームなのだが(だから、よりリアリティがあるのだが)、少女の赤い服だけはパートカラーで描かれる。少女は前兆なのか、それとも彼の良心の象徴なのか。
 ゲットー解体の日、ユダヤ人たちが追い立てられ、機関銃で撃ち殺される様子を、丘の上の馬上から目撃したシンドラーは、赤い服の少女を見とめる。人波に紛れてちょこちょこと逃げ惑い、隠れる少女から、彼は眼を離せない。その後、シンドラーはゲートに、生産効率向上を名目に、ユダヤ人労働者を譲り受け、自分の工場内に私設収容所を作ることを許してもらう。
 敗戦色が強まったある日、収容所では殺されたユダヤ人の遺体が掘り返され、証拠隠滅のために焼却される。空一面に舞い降る灰。シンドラーは遺体の山のなかに、少女の赤い服を見とめる。その後、彼はリストを作る。

 戦争というのは本当にやりきれない。権力というのは本当に怖ろしい。暗ーい気持ちになっちゃったけど、現実が暗いんだから仕方がない。
 やっぱりアウシュヴィッツにも行かなきゃならない。 

 あと、シュターンてどっかで見たと思ったら、あのガンジーだったのね。

 画像は、モリゾ「赤いエプロンの少女」。
  ベルト・モリゾ(Berthe Morisot, 1841-1895, French)

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ギリシャ神話あれこれ:心の愛(続)

 
 さて、愛の女神アプロディテの力で、プシュケは、美しくはあるが、誰からも愛されないまま。で、いつまでも求婚されない娘の行く末を案じて、王が神託をうかがうと、こう下る。
 ……乙女は人間の花嫁にはなれない。花嫁衣装を着せて山上に置くがよい。最も怖ろしいものが乙女を連れてゆくだろう。それが乙女の夫である、と。

 王たちは悲嘆に暮れながら、神託のとおりにプシュケを山上へと送る。
 
 父王たちが帰った後、山上に一人残され、泣き寝入ったプシュケを、一陣の西風ゼピュロスが運び去る。彼がプシュケを抱き下ろしたところは、花咲く谷間に佇まう豪華な宮殿。
 宮殿には従者は一人も見当たらない。が、姿なき声に満足に給仕され、やがて、おびえる気持ちもなくなったプシュケは、素晴らしい生活を送るようになる。
 夫もまた従者と同様、姿は見えないが、夜になると必ずベッドへとやって来て、プシュケと語らい、やさしく抱擁し、夜が明けると帰ってゆく。
 
 こうしてプシュケは幸福に暮らすが、あるときふと、家族のことを思い出す。で、プシュケは、心配しているに違いない親たちに、自分の幸福な身上を知らせたい、と夫に訴える。
 プシュケの優しい夫は、懸念しながらも妻の願いを聞き入れ、やがて、二人の姉たちが宮殿に招かれることに。

 姉たちは怪物の餌食になったとばかり思っていた妹との再会に喜ぶが、その豪奢な生活ぶりに仰天し、にわかに激しい嫉妬を抱く。で、夫はどんな人なのか、いろいろとプシュケに質問する。プシュケは、実は夫の姿をまだ見たことがない、と答える。

 To be continued...

 画像は、ロッツ・カーロイ「アモルとプシュケ」。
  ロッツ・カーロイ(Lotz Karoly, 1833-1904, Hungarian)  

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ギリシャ神話あれこれ:心の愛

 
 小学校のクラスのお嬢系女子たちに人気のあった一番のヒロインは、冥王にさらわれた乙女ペルセフォネ、二番は、海の怪物の生贄に捧げられ英雄ペルセウスに救われた王女アンドロメダだった。
 で、三番目に人気のあったのが、神に見初められ、幾多の苦難を乗り越えて神と結ばれる王女プシュケ。もし私がお嬢系グループだったら、ペルセフォネはもちろん、悲運と幸運なだけのアンドロメダよりも、このプシュケを推したんだけどなー。

 プシュケの物語は、ギリシャ神話(厳密にはギリシャ神話ではないが)のなかでもかなり有名で人気も高い。プシュケとは「蝶」、「魂」の意味で、蝶は不滅の霊魂の象徴。一度ならず二度までも誘惑に負ける弱さを持つプシュケが、さまざまな苦難を経て愛を成就するという物語は、醜い毛虫が蛹を経て、美しく変容する蝶に喩えられる。
 絵画でも、プシュケはよく、頭上に蝶が飛び舞う姿や、背中に蝶の羽を持つ姿で描かれている。

 でも、この物語で私が一番教訓としたのは、亡者には絶対に手を差し伸べてはならない、ということ。亡者に手を差し伸ばしても、亡者がもう一人増えるだけ……

 ある王に3人の王女があった。いずれも美しかったが、特に末の王女プシュケはこの世ならぬ美貌を持ち、美神アフロディテをさえ凌ぐほどで、広く人々からその美を崇められた。
 アフロディテ神は激しい憤怒と嫉妬から、王女を世界で一番醜い、取るに足りない男に恋をさせておしまい、と命じて、息子エロスを差し向ける。が、プシュケに向けて恋の矢を構えたエロスは、プシュケの美貌に思わずポーッとなって、矢じりで自分の指を傷つけてしまう。

 で、絶大な力を持つ自身の恋の矢によって、エロスはプシュケに、抗いがたい愛情を抱くようになる。

 To be continued...

 画像は、G.セニャック「プシュケ」。
  ギョーム・セニャック(Guillaume Seignac, 1870-1924, French)

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