20歳代前半にシェイクスピア全集を、二束三文で売り払ってからかしら。わたしは、ほとんど書籍は買わない。
活字は大好き。本の匂いを嗅ぐだけで幸福感に浸るほうなのだが、どうせ安値で売るなら、最初から図書館で済まそうということになる。
そんな次第で雑誌もほとんど買わない。最新号を、土日に図書館でチェックする日々なの。1984年から1987年までの間、雑誌「朝日ジャーナル」だけは別だった。毎号わくわくした。
わたしは日本文学やルポルタージュが元々好きだったが、この雑誌をきっかけに、社会科学や自然科学の書籍にも関心を持つようになった。これぞまさしく、「雑」の「誌」だ。毎週、豊かな雑木林を散歩するように「知の楽しみ」を味わったものだった。
当時、編集長だったのは筑紫哲也だ。対談を続けて話題になったシリーズ連載に、「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」。
その筑紫哲也が亡くなった。享年73歳。
当時よく執筆していた紅一点の室田康子記者の記事は、すべて特筆もので、署名を見るたびに嬉しかった。
有楽町マリオンにある朝日新聞社のゲスト・ルームで村上義雄編集委員からの取材の際、出迎えを受けた1階で「あれ、監視カメラですか」と訊ねると、エレベーターを待っていた最中にも関わらず、驚いてやおら正面に仁王立ちになり「けしからんなあ」と壮語する自由な雰囲気があった。
小さな記事が載ったあと、友達が皆気付いてくれて「あれぇ、読んでいるんだ」と感動したのも懐かしい思い出。
もう、そんな雑誌は金輪際、でてこないだろうなぁ。
活字は大好き。本の匂いを嗅ぐだけで幸福感に浸るほうなのだが、どうせ安値で売るなら、最初から図書館で済まそうということになる。
そんな次第で雑誌もほとんど買わない。最新号を、土日に図書館でチェックする日々なの。1984年から1987年までの間、雑誌「朝日ジャーナル」だけは別だった。毎号わくわくした。
わたしは日本文学やルポルタージュが元々好きだったが、この雑誌をきっかけに、社会科学や自然科学の書籍にも関心を持つようになった。これぞまさしく、「雑」の「誌」だ。毎週、豊かな雑木林を散歩するように「知の楽しみ」を味わったものだった。
当時、編集長だったのは筑紫哲也だ。対談を続けて話題になったシリーズ連載に、「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」。
その筑紫哲也が亡くなった。享年73歳。
当時よく執筆していた紅一点の室田康子記者の記事は、すべて特筆もので、署名を見るたびに嬉しかった。
有楽町マリオンにある朝日新聞社のゲスト・ルームで村上義雄編集委員からの取材の際、出迎えを受けた1階で「あれ、監視カメラですか」と訊ねると、エレベーターを待っていた最中にも関わらず、驚いてやおら正面に仁王立ちになり「けしからんなあ」と壮語する自由な雰囲気があった。
小さな記事が載ったあと、友達が皆気付いてくれて「あれぇ、読んでいるんだ」と感動したのも懐かしい思い出。
もう、そんな雑誌は金輪際、でてこないだろうなぁ。
- Web多事争論 (筑紫哲也 日本記者クラブ賞受賞記念サイト)
- 筑紫哲也「始終至智への旅」(日刊ブログ新聞ぶらっと! 2007.11.19 - 2008.07.14)