チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
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100均グッズで、やる気のあるうちに・・・

2019年06月10日 | ハンドメイド
今日は、ヒロシが風邪気味で寒い寒いというので、エアコン暖房を入れてしまいました。猫たちも、心地よさげに寝ています。
朝から雨なので、またまたチクチク始めました。
オムツを作ろうと買ったはずの晒布(かれこれ30年もほったらかしだった)を押し入れから見つけ、もったいないから刺し子ふきんにしようと思い立ちました。超簡単な直線的図案を適当に書いて刺しています。5枚分はあるので、やる気のあるうちに刺してしまいませう。
それにしても、100均の手芸コーナー、バカにできません。
この刺し子糸(段染めです、ステキ!)も100均で購入したのですが、この前の袋物の材料もそうでした。
なんでも一応揃っています。手芸屋さんが近くにないので、とても助かります。
がんばるぞー
 
 

チエちゃんと飛鳥をつなぐもの・2

2019年06月08日 | チエの玉手箱
蘇我馬子(そがのうまこ)の命により暗殺された崇峻天皇はその日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬られました。これは異例なことです。(昭和天皇の時を思い出してください)
そして、このような場合、復讐されないようにその一族(崇峻の家族)は皆殺しに遭うのです。
小手子(こてこ・小手姫)の息子 蜂子皇子(はちこのみこ)はその夜のうちに従者3~4名と馬で飛鳥を脱出しました。そして、大和朝廷の支配が及ばない東北の地にたどりつき、山形県出羽三山の開祖となります。(蜂子皇子伝記)
一方、小手子は、自分が告げ口したことで大変な事態になってしまったことをさぞや後悔したことでしょう。おそらく、馬子に操られていたのだと私は思います。秘密を知っている小手子も安全で居られるはずがありません。
このことは、実行犯の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)も馬子の娘 河上娘(かわかみのいらつめ・崇峻の夫人だった)を偸(ぬす)んだとして、殺されてしまったことからも分かります。(馬子は策謀家だったと思います。)
厩戸皇子(うまやとのみこ・聖徳太子)の手引きで、父・大伴糠手(おおとものあらて・ぬかで ともいう)と共に飛鳥を脱出し、蜂子皇子の後を追ったと言われています。
しかし、山形にたどり着くことはできませんでした。福島のチエちゃんの村に来て、何らかの理由(たとえば、年老いた)でこの地に留まり、養蚕と機織りを伝えましたが、(息子との再会を果たせず)失意のうちに亡くなったと伝えられています。

小手子によって伝えられた養蚕と機織りは、この地方を絹織物の一大産地とするのです。今でこそ、廃れてしまいましたが、高度成長期あたりまではこの地方の重要な産業でした。
社会科の先生に教わったことがあります。
なぜ、福島に日本銀行の支店があるのか分かるか?
そうです。日銀の支店を置くくらい、福島は養蚕・製糸業で儲かっていたのです。
さらに、小手子がこの地へ来てから、350年後には養蚕の技術を上州に伝えたことが記録に残っています。小手子が来なかったら、富岡製糸工場も世界遺産とはなっていなかったのです。

私は、小手姫伝承は各地に残るヤマトタケル伝説のようなものと考えていたのですが、今では小手子がこの地を訪れたことは間違いのない史実と思っています。
チエちゃんの村は、旧小手川村(きゅう おでがわむら)というのです。
1400年前の飛鳥と、東北の片田舎の村は不思議な縁で繋がっているんです。

飛鳥関係のお話しに長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

チエちゃんと飛鳥をつなぐもの

2019年06月07日 | チエの玉手箱
今日は、チエちゃんこと私が飛鳥にあこがれることになった訳を書いておきたいと思います。
その一つは、672年に起こった皇位継承をめぐる争い『壬申の乱』を描いた黒岩重吾氏の『天の川の太陽』を読んで、大海人皇子(おおしあまのみこ・おおあまのみこ ともいう 後の天武天皇)が好きになったからです。
自分の運命を自らの手でつかみ取るって、なんてすごい人なんだろうと思いました。

そしてもう一つ。チエちゃんの村に伝わる 小手姫(おでひめ)伝承です。
昔々、遠い都の姫がやって来て、この村に養蚕と機織りを伝えたというものです。
壬申の乱を遡ること80年、592年のことです。
第32代崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、蘇我馬子(そがのうまこ)らにより天皇に即位させてもらったのですが、政治の実権は馬子が握っていたため、馬子を排除しようと企てます。しかし、逆に馬子の察知するところとなり、(馬子の命令により)東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって殺されてしまうのです。
この崇峻天皇の妃が大伴糠手(おおとものあらて)の娘 小手子(こてこ) なのです。
日本書紀には、こう書かかれています。

或本に云はく、大伴嬪小手子、寵の衰えしことを恨みて、人を蘇我馬子宿禰のもとに使りて曰はく、「頃者(このごろ)、山猪を獻(たてまつ)れること有り。天皇、猪を指して詔して日はく、『猪の頸を斷らむ如く、何の時にか朕が思う人を斷らむ』とのたまふ。且(また)内裏にして、大きな兵仗を作る」といふ。是に、蘇我馬子宿禰、聴きて驚くといふ。

小手子は、崇峻の寵愛が他の女に移ってしまったことを恨んで、「天皇があなたのことを殺そうとしていますよ」と馬子に告げ口したというのです。
書紀が伝えるのは、ここまでです。
この後、どうなったのでしょう?
つづきは、また明日。

※参照:泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)

あこがれの飛鳥旅行2日目 その3

2019年06月05日 | チエの玉手箱
12:10 伝飛鳥板蓋宮跡(でん あすかいたぶきのみや あと)到着 
ここには誰あれもいません。独りきりで想いに浸ることができました。

第35代皇極(こうぎょく)天皇(天智・天武の母)の板蓋宮跡は私が2番目に来たかった場所です。
ここで、乙巳の変(いっしのへん)が起こったんですよ。
乙巳の変 つまり、中臣鎌子(なかとみのかまこ 後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのみこ 後の天智天皇)が、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我宗家を滅ぼした事件。大化の改新のはじまりです。
そしてここには、第34代舒明(じょめい)天皇の飛鳥岡本宮や天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮も置かれていたことが判っています。
つまり、当時の政治の中心地だったわけです。

12:30 次に向かったのは 奈良県立万葉文化館 です。
中学生が見学に訪れていました。
せんとくん が居ました。
万葉の時代の暮らしぶりなどが展示されていました。
企画展以外は入場無料。

13:30 飛鳥寺
596年に蘇我馬子が建てたお寺。日本最古の仏像 飛鳥大仏がある。
ここは、写真撮影OKなんですって。案内人の方が教えてくださいました。
飛鳥寺は落雷で焼けて、現在の建物は江戸時代の再建だそう。
建立当初はこの辺りに中門があったとのこと。
きれいにお花が植えてありました。お花畑隣りは畑。
飛鳥って観光地なんですけど、お寺や古墳の脇に畑があって、ネギやさやえんどうが生ってる。なんか普通なんです。
飛鳥寺の西側にある入鹿の首塚。供養塔ですね。
写真のおねえさん、熱心に手を合せていました。

14:00 水落遺跡
中大兄皇子が作らせた水時計の跡ですって。
同じ敷地内にある埋蔵物展示室も見学しました。無料です。
猿石のレプリカがありました。

14:30 さて、いよいよ私の飛鳥巡りも終わりに近づいてきました。
最後は、甘樫の丘。
この階段を登った先に展望台があります。
甘樫丘には、蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があった。
展望台から見た飛鳥の里。

こちらは反対側。
左側に見えている山が畝傍山。右側は耳成山かな?
ゆとりがあれば、もう一か所見学したかったですが、脚が限界でしたので飛鳥にさよならをし、橿原神宮前駅に向かいました。

15:30 駅前でレンタル自転車を返却。私が借りたレンタサイクル店はあちこちの支店に乗り捨てができました。
15:37 近鉄急行で京都へ
16:48 京都駅到着
駅地下のスターバックスで一休みしてから、京都タワーへ。
お目当ては、地下3階にある銭湯です。
汗を流して疲れを取ります。
それから夕食にお蕎麦を食べ、京都タワー展望台へ登りました。
神奈川の中学生が修学旅行に来ていて混雑し、エレベーターの順番待ちでまた汗をかいてしまいました。
21:50 京都駅バス停から福島行き夜行バス ギャラクシー号乗車
夜行バスは初体験です。これに乗れば、寝ている間に帰れます。
翌日 7:50 無事福島駅前に到着。

今回、この夜行バスがあったので飛鳥旅行を決めました。
事前にネットやガイドブックを見て、見学コースを決めて出かけ、ほぼそのとおりに旅行することができました。
飛鳥は観光地なのに、自然がいっぱいで、田んぼや畑があって、ひっそりしていて、私向きな所でした。また、行ってみたいです。
長々と私の旅行記にお付き合いいただきありがとうございました。


あこがれの飛鳥旅行2日目 その2

2019年06月03日 | チエの玉手箱
10:30 続いて見学したのは聖徳太子が生まれたところと言われている橘寺。
じゃあ、ここの厩(うまや)で生まれたの?
まあ、高貴なお方が出産されるのだから、そんなはずないんですけどね。
ここは撮影禁止なのかなと勝手に思って撮らなかったので、入山券の写真です。ここまで自転車を漕いでヘロヘロになってしまった私は、境内の大きな休憩所で一休み。冷たい水を飲んで生きかえりました。

11:00 次に向かったのは 石舞台古墳です
右側の人と比べてください。とにかく、ばかでかい。
蘇我馬子(そがのうまこ)のお墓と言われています。
内部も見ることができました。
こんな大きな石、どうやって運んだんでしょうね。

11:30 少し早目の昼食(正午頃は混雑するかなと思って)
石舞台近くの夢市茶屋で、古代米御膳をいただきました。
飛鳥時代のお米は赤いお米だった。最近、健康志向でわりと売られてますね。
おいしかったです。
次の伝承板葺宮跡に向かう途中の街並みがならまち風ですてきでした。
おしゃれなカフェなどになっていましたよ。


(つづく)

あこがれの飛鳥旅行2日目 その1

2019年06月01日 | チエの玉手箱
  8:40 近鉄吉野線で橿原神宮前駅から再び飛鳥駅へ。
今日は雨も上がったので、レンタル自転車で飛鳥を巡ります。
レンタル自転車屋さんが開店するまで、予定外だった欽明(きんめい)天皇陵へ徒歩で行ってみることにしました。
欽明天皇は第29代の天皇で、敏達(びだつ)天皇と推古(すいこ)天皇(女性)の父。ちなみに、敏達と推古は婚姻関係にあるのですが、この時代は母親が違えば兄弟でも結婚できたんですね。陵墓は前方後円墳で、周りを濠が囲んでいます。(上の画像)
正面から見たところ。だあれも居なくて、ひっそりとしていました。
この陵墓の西隣には、檜隈墓(ひのくまのはか)吉備姫王(きびひめのみこ)の墓があります。
吉備姫王は36代孝徳天皇(軽皇子・かるのみこ)と35代皇極天皇(宝皇女・たからのひめみこ)の母。
そして、この墓の囲いの中に猿石と呼ばれる石像4体が置かれています。
宮内庁がしっかり管理していて、中に入ることはできません。
 
 
  9:10 レンタサイクル店で自転車を借りる
お店番の腰の曲がったおばあちゃんが、地図をくれて見所と巡る順番を親切に教えてくれました。そこは、どれも私が予定に入れていたものでした。
感謝。感謝。旅先にての親切はうれしいものです。
 
  9:20 自転車を漕いで坂道を登り、高松塚古墳到着。
キトラ古墳と高松塚古墳は、今回必ず見たい目的地の一つでした。感激!
キトラ古墳より大きな古墳でした。芝生がきれいに刈り込まれて管理されています。
隣接する高松塚壁画館を見学。ここは撮影禁止なので、パンフレットで。
ここでは、高松塚古墳の壁画模写が展示されていました。
丁寧なことに発見されたままの壁画模写と、汚れや剥落部分を修正して見事に復元した模写の両方が展示されています。(ひびわれも模写されてた)
キトラのものより、汚れが少なくきれいです。中でも、パンフレットの表紙の女子群像が一番鮮明であることが分かりました。男子群像の一部分は茶色の汚れで覆われているので残念です。
古代史ファンにとっては、誰のお墓なのかを想像するのも楽しいことです。
これだけの装飾を施したお墓ですから、私は絶対、王族のお墓だと思っています。
高松塚・キトラともに天武・持統陵のほぼ直線上に位置しているので、天武の皇子である可能性が高い(というか、そうであって欲しいという私の願い)と思います。実際に、学者の間では高市皇子(たけちのみこ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)の名前が挙がっています。
 
  9:50 この旅の一番の目的地 天武・持統天皇陵
私は天武天皇のファンなのです。
もちろん、二拝 二拍手 一拝 でお詣りをしました。
ここには、宮内庁から依頼されている業者さんかしら、草刈をしている方が居ました。
10:20 さらに自転車を漕いで(この辺りはダラダラ上り坂、ちょっときつい)
明日香では自転車用歩道がオレンジっぽい色で舗装されているので、判りやすいです。有名な亀石に到着。
思っていたよりも大きな石で、びっくり。
明日香はこのような石像が多い。
(つづく)