うだつをあげることもできない私でも鬼瓦を仰ぎ見ることはできる。
かっては、男に限らず、社会にでて身の出世を全く望まない人はいないと思っていた。
どうも最近勝手が違う。
出世の意味が大きく自分の中でも変わってきている。
いやむしろ変えざるを得なくなったというべきか。
初老のせいだろうか。
生きるというよりも、過ごし方を主観的に判断するようになったようでもある。
人からの評価をあんまり気に留めなくなったかわりに、自省の独り言は多くなった。
よいことなのかよくない前兆かは別にして、「自分で玉を持って走る」というようなことを避けるようになったのである。
神社仏閣の類以外の人家において、鬼瓦をあげる家を持つことは、出世の一つの象徴でもあった時代がある。
欄間や鬼瓦は、固定資産税に反映されたりもする。
出世とはどういうことを指すのだろう。
私は、お寺の鬼瓦をそんな風に仰ぎ見ていた。
はげかけたこの鬼瓦。