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南無煩悩大菩薩

今日是好日也

Morning

2018-07-25 | 意匠芸術美術音楽
(photo/Vintage Geisha)

ネットは「人と出会わなくても済む世界」である。だが、コミュニケーションの基本は「広場に行って、人の話を聞く」という原始的な手法である。

私も街を徘徊しながら、同じようなことをやっている。用もなく、意味もなく、ふらふらすることをペルシャ語では「チャランポラン」という。意味もなく、ほっつき歩きたい精神状態を表してもいる。

詩人や小説家の本来の仕事は「チャランポラン」で、詩や小説はその報告書に過ぎない。「チャランポラン」の楽しみは他人の脳と体を借りて、暇をつぶし、物思いにふけり、時に意識的に愚行をすることである。その成果が自分の作品の細部を埋めているのだから、やはり、日頃の「チャランポラン」が物書きの文運を支えていることになる。

平穏な日常が続いていれば、幸福や不幸を意識することはないが、いざ天災や戦争、身内や知人友人の死に直面すると、平穏無事であることの恩恵を改めて噛み締めることになる。非常時には「チャランポラン」もしていられないから、思う存分「チャランポラン」できる平穏無事のありがたみがなおさら身に沁みる。

学校の道徳の授業で何を学んだかは覚えていないが、「他人の痛みを理解せよ」とか「みっともない真似はするな」といわれたことはよく覚えている。世間に恥を晒すことを嫌うがゆえに人は礼節を守り、不正を働くまいとしたのだが、今はその世間自体が分断されてしまった。

仲間内では礼節をわきまえるが、自分と無関係の相手には冷淡になれる。その態度は自分だけでなく、世間全体を不幸にするだろう。

他人の愚行をどの程度、許容するか、それは市民の寛容の度合いを知る一つの目安になる。世間はある程度、自分の愚行に対して、理解と寛容を示してくれているのだから、愚行をする方もそれにふさわしい礼を尽くすのが大人である。

礼の目的は人間関係を円滑にすることにある。無礼者は自分から世界を狭めてしまう。

成功、発展、進歩などが幸福の条件とみなされた時代がかってあった。それなりの成果はあっただろうし、そのことによって幸福度は上がったかもしれない。しかし、成功よりも逃避、成熟よりも未熟、発展や進歩より堕落や愚行の方を好む者も、自分を含めて一定数いたはずである。

人類に偉大な貢献をする人は各界で十年に一人くらいは現れるが、案外、彼らの成功の背景には豊かな「チャランポラン」体験と愚行の蓄積があったことも確かである。

-切抜/島田雅彦「幸せってなんだろう」JAFMateより


photos/Masao Yamamoto : music/John Williams
コメント (2)
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