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桜こそは、春の花のうちで表現の最もすぐれたものの一つであります。
しとしとと降り暮らす春の雨の冷たさに、やや紅みを帯びて悲しそうにうなだれたつぼみというつぼみが、一夜のうちに咲きそろって、雨あがりの金粉をふりまいたような朝の日光のなかで、明るくほがらかに笑っている花の姿は、多くの植物に見るような、蕾から花への発展というよりも、むしろすばらしい跳躍であります。
感激というよりも、驚異であります。第二楽章なしにすぐに第三楽章への躍進であり、表現と高興との中心への侵入であります。こと生命の歓びに、やっと新芽を吹いたばかりの草も、木も、饒舌家の小鳥も、むっつりやの獣も、さすらい人の蝸牛も、地下労働者のもぐらも、みんな魔術にでもかかったように、いい気持になって夢を見ているなかに、この桜の花のみは、ながい三春の歓楽をわずか二日三日の盃に盛って、そこに白熱した生命の燃焼と豪奢の高興とを味いつくそうとするのであります。恋をするものは、道を歩くにも決して後をふり向かないと云います。むかしの詩人は、
さまざまの事思ひ出す桜かな
と謂いましたが、それはその詩人自らの追想であって、桜には何の追想もありません。追想するほど自分とかけ離れた自分を持たないからであります。張りきった恋愛の激情には、子女の繁殖など思う余裕はありません。それ故に桜の花は、梅や杏のように実らしい実を結ぼうとはしません。花自らが生命の昂揚であり、燃焼でありますから、それが他の花から見て、若き日の徒費であろうと、少しもかまわないのであります。
むかし徳川の末、たしか弘化の頃であったと思います。名古屋に山本梅逸の弟子で、小島老鉄といった画家がありました。古寺の閻魔堂のかたわらに、掘立小屋のようなちいさな庵を結んで、乞食にも劣った貧しい生活のなかにも、蘭の花のような清く高い心持を楽んでいました。ある冬の事、あまりの寒さつづきに、小屋掛の身はどんなに凌ぎ難かろうと、親切にもわざわざ炭三俵を送ってよこした友達がありました。老鉄はそれを見ると大層喜びました。
「折角の志じゃ。火をおこしてすぐに暖まるとしょう」
といって、いきなりそれに火をつけて、三俵とも一度に火にしてしまいました。そして尻を暖めながら、
「ああ暖かい、いい気持じゃ。久し振で今日は大尽になったような気がするて」
といつて、いい気になっていたという事であります。
炭を送ってよこした友達の心では、冬中の寒さはこれだけあったら凌ぎおおせるだろうというくらいに考えていたらしいのです。また普通の人ならばきっとそうしただろうと思われます。だが、老鉄はそんな真似をしないで、三俵一度に火にしてしまいました。つまりこれまでの貧乏暮しのように、ちびりちびり火をおこしたところで、三俵の炭はやっと六十日を持ちこたえるに過ぎますまい。それでは唯平凡な日の連続に過ぎません。それよりかも、折角到来の炭です。残りの五十九日はよし寒さに凍えていようとも、その五十九日にも替え難い程の一日を味ってみたいというのが、画家老鉄のその日の思い立ちではありますまいか。彼が尻を暖めながら、いい気持になつて、
「まるで大尽になったような気がする。」
といったのは、実際言葉どおりに生活の跳飛であり、経験の躍進であり、更にまた新しい心持の世界の新発見でありました。
桜の花の気持は、画家老鉄のような態度を持った人で、初めてよく味わい深くなりますし、老鉄の抱いていたような心持は、この花の姿でおもしろく表現出来ていると思います。
-切抜/薄田泣菫「桜の花」より
桜こそは、春の花のうちで表現の最もすぐれたものの一つであります。
しとしとと降り暮らす春の雨の冷たさに、やや紅みを帯びて悲しそうにうなだれたつぼみというつぼみが、一夜のうちに咲きそろって、雨あがりの金粉をふりまいたような朝の日光のなかで、明るくほがらかに笑っている花の姿は、多くの植物に見るような、蕾から花への発展というよりも、むしろすばらしい跳躍であります。
感激というよりも、驚異であります。第二楽章なしにすぐに第三楽章への躍進であり、表現と高興との中心への侵入であります。こと生命の歓びに、やっと新芽を吹いたばかりの草も、木も、饒舌家の小鳥も、むっつりやの獣も、さすらい人の蝸牛も、地下労働者のもぐらも、みんな魔術にでもかかったように、いい気持になって夢を見ているなかに、この桜の花のみは、ながい三春の歓楽をわずか二日三日の盃に盛って、そこに白熱した生命の燃焼と豪奢の高興とを味いつくそうとするのであります。恋をするものは、道を歩くにも決して後をふり向かないと云います。むかしの詩人は、
さまざまの事思ひ出す桜かな
と謂いましたが、それはその詩人自らの追想であって、桜には何の追想もありません。追想するほど自分とかけ離れた自分を持たないからであります。張りきった恋愛の激情には、子女の繁殖など思う余裕はありません。それ故に桜の花は、梅や杏のように実らしい実を結ぼうとはしません。花自らが生命の昂揚であり、燃焼でありますから、それが他の花から見て、若き日の徒費であろうと、少しもかまわないのであります。
むかし徳川の末、たしか弘化の頃であったと思います。名古屋に山本梅逸の弟子で、小島老鉄といった画家がありました。古寺の閻魔堂のかたわらに、掘立小屋のようなちいさな庵を結んで、乞食にも劣った貧しい生活のなかにも、蘭の花のような清く高い心持を楽んでいました。ある冬の事、あまりの寒さつづきに、小屋掛の身はどんなに凌ぎ難かろうと、親切にもわざわざ炭三俵を送ってよこした友達がありました。老鉄はそれを見ると大層喜びました。
「折角の志じゃ。火をおこしてすぐに暖まるとしょう」
といって、いきなりそれに火をつけて、三俵とも一度に火にしてしまいました。そして尻を暖めながら、
「ああ暖かい、いい気持じゃ。久し振で今日は大尽になったような気がするて」
といつて、いい気になっていたという事であります。
炭を送ってよこした友達の心では、冬中の寒さはこれだけあったら凌ぎおおせるだろうというくらいに考えていたらしいのです。また普通の人ならばきっとそうしただろうと思われます。だが、老鉄はそんな真似をしないで、三俵一度に火にしてしまいました。つまりこれまでの貧乏暮しのように、ちびりちびり火をおこしたところで、三俵の炭はやっと六十日を持ちこたえるに過ぎますまい。それでは唯平凡な日の連続に過ぎません。それよりかも、折角到来の炭です。残りの五十九日はよし寒さに凍えていようとも、その五十九日にも替え難い程の一日を味ってみたいというのが、画家老鉄のその日の思い立ちではありますまいか。彼が尻を暖めながら、いい気持になつて、
「まるで大尽になったような気がする。」
といったのは、実際言葉どおりに生活の跳飛であり、経験の躍進であり、更にまた新しい心持の世界の新発見でありました。
桜の花の気持は、画家老鉄のような態度を持った人で、初めてよく味わい深くなりますし、老鉄の抱いていたような心持は、この花の姿でおもしろく表現出来ていると思います。
-切抜/薄田泣菫「桜の花」より