南無煩悩大菩薩

今日是好日也

「汝為すべし」vs「我欲す」

2018-03-04 | 古今北東西南の切抜
/龐居士、霊昭女図屏風-見立久米仙人-)

私は久米の仙人が好きだ。好きだといって、何も交際ぶりが気に入ったとか、酒の上の話が合ったとかいうのではない。不思議な仙術を得て、あちらこちらと空を駈けずりまわる途すがら、そこいらのかわっぷちで洗濯女の白い脛を見て、急に地面に落ちたという、あの言伝えが気に入ったのだ。
 
もしか私が仙人のような羽目になったとして、ああした白い女の足を見たのでは、どうしても落ちて来そうに思われる。いや落ちて来そうなのではない、落ちて来た方がよいのだ。実際仙人が落ちて来たのは、何もあの人の道心が浅かったとか、また今時の教育家のいう性教育とやらを受けなかったとかいう訳ではない。――全く見逃す事の出来ない偉い心の変化なのだ。

久米の仙人は空を飛ぶものの用意として、雀のように質朴な考へを持たなければならない事も知っていた。鶲(ひたき)のように独りぼっちで居なければならない事も知っていた。鷦鷯(みそさざい)のように塩断ちをしなければならない事を知っていた。それからまた雲雀のように唯もう高いところに心を繋がなければならない事も知っていた。――こういう事は何もかもそっくり知っていたには相違ないが、(というのになんの不思議があろう、知っていたからこそ空も飛べたのだ)その知っていたのは、空でも飛ばうというものは、そうしなければならないという、これまでの言伝えをそのまま信じていたに過ぎなかった。
 
で、仙人は空を飛んだ。砂漠のような乾いた空をあちこちと飛び歩いて、こうして高く揚る事の出来た心掛を、独りで得意がっていると、ちょうどその足もとの久米の里では、小川の河っ縁で濯ぎ物をしている女がある。女は著物の裾をやけにたくしあげているので、ふっくりと肥えた脛がよく見える。
 
それが眼にとまると、これまで押えに押えた仙人の感覚は、蠍のように眠りから覚めて、持前の鋭い刺激を回復した。そして新しい弾力で一杯になったその肉体は、干し葡萄のように萎びきった霊の高慢くさいのを嘲笑った。
 
霊は黙ってその侮辱をうける他はなかった…………と思うと、久米の仙人は羽茎を打たれた鳥のように、もんどりうって小川の河っ縁に落ちて来た。その刹那に新しい価値の世界の薄明が、かすかに動いたに相違ない。
 
ニイチェのツァラトゥストラは 、心の三段変わりという事を説いた。心が重い荷物を背負って駱駝となって砂漠の旅に出た。寂しい旅の半程で、駱駝は急に獅子と変化し、これまで主人として仕えた大きな龍と闘った。

龍の名は“Thou shalt”獅子のは“I will”というのだ。両個は従来龍の持っていた『物の価値』について、ひどい取っ組合いをした。実際獅子にはまだ『価値』を創り出すだけの力量は無かったが、やがてそれを創ろうといふ『自由』を産むだけの力は十分あった。とかくする間に獅子はまた小児に生れ変った。小児は価値の出発点で、立派な肯定だ。新しい世界はここから始まるというのだ。
 
久米の仙人は女の脛を見た刹那、ニイチェの言った新しい獅子へと変化していたのだ。そして自分を乾いた空へ引張りあげた龍と争って、また地面に落ちて来た。私は次の刹那に、仙人がも一度第三の変化を遂げたかどうか知らないが、その胸に育まれた自由の思想は、やがて新しい価値の世界を発見せずにはおかないのだ。
 
元亨釈書の謂うところによると、釈理満とかいった河内産れの坊主は、わざわざ性慾を絶とうとして、陰萎の薬を飲んだそうだ。なんという気の毒な事だ。人間はどんな場合にも無駄な空想に駆られて、生活の力を自分で殺ぎ取ったり、別々に働かせたりしてはならない。身体のどの部分にも絶えず新しい力を波立たせ、それを生命の奥でひっくくって、よい機を見はからっては、自己を拡大し、充実する生活へ飛躍を試みなければならないのだ。

釈理満はこうして性慾の煩いを絶ってから、一心に法華を誦んだお蔭で、佛陀が涅槃の同じ日に息を引き取ったそうだが、そんなにまでして往生の素願を遂げようとも、折角内から燃えて来る焔を自分で塞いでしまったのでは、その生活は何処かにがらんどうのような空所があったに相違ない。それに比べると、久米の仙人の生活には充実があった。弾力があつた。その生命は永久に若返って、私達の生活に脈打っている。
 
女の脛を見て空から落ちた人――私は久米の仙人を思うと、沼水の底から、自分の茎を引切ってまで、水上の雌花に寄り添ってくる セキショウモ の花を思ひ出す。また、わが脚のちぎれるのも厭わないで、生殖腕を雌の外套膜に投げこむ蛸舟の雄を思ひ出す。

こういう全人格の底の底から震い動く衝動には、どうかすると、自己を破滅に導かないではおかぬ飛躍がある。それがそうあろうと構うことはない。自己の破滅はやがて新しい価値の発見である。

-薄田泣菫「久米の仙人」より