人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。
その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。-岡潔「人間の建設」より-
つまりは自我によってのみ行われる行為は、そのことについて明らかでは無いということなのでしょう。
本来の意味について、目が曇っている状況だともいえましょうか。
人の欠点が目につくということで、長所がわかるということではありませんね。とも氏は述べています。
至近な例でいえば、よく気がつき想い一生懸命な口やかましい保護者に対して、自我に目覚めた子供は反発する。
自己中心の考え方しかできない無明の段階にあるものは、そのことの長所を汲むより先に短所をよりどころに自我を押し通そうと躍起になるようです。
私もかってはそうだったように。
子供に限らず、誰でも欠点を赤裸々に意識または指摘されると、無視もしくは反発したくなるでしょう。
無明を無くすことに近づこうとするなら、まずは私自身の岡さんの言う本能を疑ってかかりたいと思います。
欠点はとりあえず置いといて、長所を理解しそこに訴えようと努めるほうが実はうまくいくし楽しいのだと思います。
ただ、自己を否定することなく無無明を目指すのは大変難しい、かの孔子でさえ「七十にして矩(のり)を超えず」であったのですから。
無限界 乃至(ないし)無意識界 無無明 亦(やく)無無明尽