って季節到来なのかもな。
というのが、わがベランダの風情で。
ヒヨドリとメジロ、たまにイソヒヨドリが押しかけてのミカン争奪戦はそろそろ終了かも。
という景色になりつつある。
季節は巡るんだよね。
すべてが巡り、一つとしてじっとしているものはない世界だ。
そこへ、わが人間脳が介在し、静物画みたいにその瞬間をいかにも定着させて、なんて具合。
だけど、その実、その絵すら動いている。
単に認識できないので存在しません、ってわけだ。
この何十年なのか、目に見えるものだけ、手に触れるものだけが存在し、なんて妄想が広がり。
あたかもそれが宇宙開闢以来の真実であるかのように、そう言わないものは零落の運命を負わされ。
なんて書くといかにも大袈裟かもだけど。
明治の時に、多くの修行者、ま、山伏みたいな方々や加持祈祷の口伝、相伝の方々が隅に追いやられ、とか。
和魂洋才の、洋がすっかり席捲しまくりの時代になって今に至る、ってわけだ。
加持祈祷といえば、前にも書いたかもだけど、ご近所に石神さんという方がいらっしゃったそうで。
僕は直接お会いしたことはないんだけど、何度も、母親や祖母から聞かされた。
土地ではシンジンシャと呼んでいたようだ。
信心する者と漢字が当てられるのかな。
静岡で薬屋をやっていたおばさん夫婦がよく来ていたよ、なんて話や。
あんたも観てもらった。
あの子は胃が悪いね、よく噛むように言ってくれ、だったかな。
たしかにその頃の僕は神経質と呼ばれ、気が病むタイプだったので、そんな周囲の印象を裏付けもしたんだろう。
歯が悪かったからよく噛めなかったんだよね、きっと。
そんなこと、わかってるだろう、なんて気分が起こったかな、うっすらとした記憶では。
そんな時代を懐かしむとは少し違う、創造のための糧として見直す、なんてことになりつつあるのかも。
というような一日に出かけますか。