そんな思いがやってきた。
思い、と言うのか、アイデア、と言うのか、思念、とか、思考、とか。
なんでもいいけど。
このところ、COVID-19で世も日も開けぬ、って風情なんだよね。
会社的にも、5月が決算で、そのあとの展開をどう考えるか、ってお題もあり。
かつ、日々の社員さんの、あるいは、これからの社員さんの日常とか。
もちろん、我が身の日常、ってのもありだけど。
だけではなく、日々、さまざまに変化、変容する、多くはマスやSNSなどのメディアからの知見。
とかね。
いつにも増して、情報量が多いわけだ。
と言うか、取りに行ってる、とも言えるけど。
そんな中で、やっぱり、表題なんだろうな、と。
夕べ、ヤマザキマリと言うイタリア在住の漫画家さんが、話していた。
なぜなんですか、イタリアの爆発的な感染は?と言う問いへの答えとして。
もちろん、財政難での医療削減はありつつ、濃厚なんだ、と言うんだね。
家族、と言うもの、友人、と言うものへの接触、関わり、コミットメント、ってのが。
それに、よく食べ、よく話し、よく集まる、と言うこと。
週に何度か、あるいは、月にだったか、一族郎党が集まり、食べ、飲み、喋る。
それ、当たり前、デフォ、そこへ参加しないと、なんだかな的な見られ方をしちゃう、とかね。
とにかく、今では、禁忌になっちゃってる観のある、濃厚接触なわけだ。
そりゃ、ローマ帝国の時代から、闖入、侵入、侵略、劫略、言い方はともかく、各地各方面から。
いろんなホモ・サピエンスたちが、姿形を変えて、やってきたと言う歴史の中で。
もちろん、自分たちも出張って行った、ってのは大きいんだろうけど。
そりゃ、みじかな、心を許せる仲間たちとの、再確認、よかったね、一緒にいれて、力を合わせて。
頑張ろうね、って日常は、ありだよな。
なんて思いつつ、そんな社会が、なんとかdistancingなんて言われて、距離を取れ、離れろ。
みたいなメッセージでしょ。
彼らの中では、どうしたんだ、何があったんだ、ってなもんだよね。
加えて、終末医療→看取り→埋葬?火葬?→葬儀、と言う流れが、壊れざるを得ず。
だって、感染者には、例の防護服でもきてなきゃ、だし、そもそも、誰がどこの人で、と言うコントロールが。
崩壊してるようで、誰にも看取られず、看取ることもできず、と。
そこに唯一、最後の、臨終の場面に立ち会う、神父様、その方の存在が、救いなんだそうだ。
そんな、神の使い?代弁者?なんて称するかはわかりませんが、彼らだって。
不死身ではないわけで、当然のように罹患するんだよね。
殉職した医師の数より多くの神父様たちが、お亡くなりになっている、と言うんだね。
なんて話を聴きながら、の独りで過ごす夜だった。
わが方は、サージカルテープを横一文字に貼り付け、そして、眠りについた。
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