12月21日の冬至に向けて、着々と、進んでいる。
って風情が障碍となり、平日走りの時間を捻出するのに苦労している。
というか、今朝は、ちょっと無理なのかな、という次第。
たまにはゆっくりの水曜日もいいか。
昨日は、わが事務所での討論会、は、大袈裟か。
単なるよもやま話に花が咲いた客人が訪れ、ケニアのキアマバラという珈琲でもてなし。
って午後の時間を過ごした。
奥様が鬱になって、という御仁もいらっしゃり。
思わず、「あらゆる存在は完璧であると信じたら、ヒーリングが起こる」なんて言葉を差し上げた。
これまた、信・不信の微妙な差異がなかなかに見分けにくく。
頭で、言葉で信じる、と表明しても、自我という傑物は、どこかで疑いの目を向ける。
なにせ、長い長い歴史の育んだ産出物、造形物なんで、厄介でもあり。
というわけで、MAってのを行使してみた。
ここに立ってみて、僕が何もしなくてもあなた、後ろへ倒れるよ、ってね。
倒れた。
その瞬間、頭が空っぽになった、というわけだ。
僕が何かをした、というより、そこに流れるエネルギーを届けた、とでもいうか。
そんなわけで、その場は、少し和らぎ。
なんて時間が過ぎた。
何が起こったか、鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな風情。
たぶん、これから起こってくることごとを受け止めるには、うってつけの事象だった。
はずだけどね、予感としては。
これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか、と加川良が半世紀前に歌った。
彼は、ちょっと世を拗ねての歌詞を紡いだのだけど、拗ねてではなく。
フラットな事実として、という世界が現出する、あるいは、単に目の前に裸になった出来事が。
訪れる、さて、その時に、内側での処理をどうしましょうか、ってのが、テーマだ。
ところで、このところ、また、ボブディランの「murder most faul」を聴いている。
もっとも卑劣な殺人、例の、JFKの暗殺を題材にしたもの、ね。
パンデミックと大統領選の渦中に流れる彼の歌、なかなか味わい深いものがある。
なんて呑気な言葉で結んでもいいのかどうなのか、ってことだけど。
このあたりをじっくり語ってみたいという衝動に駆られつつ、次なるルーティンへ向かうとします。
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