昨日の昼食は、このブログのコメンテーターさんと。
って、すっかり、そんなネーミングが定着しちゃったよ。
その御仁の自称が、表題だったんだけど。
大きな話と比較しちゃうとレオナルドダビンチってくらいのものだね。
彼も器用貧乏だったからね。
何百年も経った後に、「ダヴィンチコード」なんて映画にもされちゃって。
モナリザの微笑、描いたんだよね。
なにせ、このところ、天才性の発露、がテーマなんで、そのことを。
よりわかりやすく、シンプルに表現したいな、という願望もあり。
その門口には、比較の話やら世間、社会の話も踏みこえるものとしてあるんだな。
すべての人が持っている天才性、天から授かったサガ。
それが、社会と名付けられた、なんていうのか、幻想の、まぼろしの怪物によって。
さまざまな解釈の中に放り込まれている、とでもいうかね。
その解釈に翻弄されつつ、いやいや、そうでもなくて、って具合かな。
他にもテーマとして、武者小路実篤だよね、僕の前に道ができる、だったか、あるいは、僕の後に。
だったか、道、というものが、なんとなく、気にかかっていて。
フェリーニの「道」だったか、そんな映画をかっこよく論じれば、だけど。
見たことあるけど、忘れました。
なんて時に、「おくまの」という小冊子が届き、熊野でお世話になった三石学さんが小文を書いていたんだけど。
そこで、「道は歩いてこそ道である」なんてフレーズに、耳ピクピクときた次第。
それに続いて、歩かれない道はいつの間にか消え去り、記憶からも忘れられていく、とあった。
今をときめく熊野古道を、15年かけて掘り起こした、という御仁の言葉だね。
母親がまだ、記憶のアイデンティティが定かな頃、軽井沢への道すがら、御代田。
という地名が出てきて、たしか、昔、そんなところを通ったことがある。
なんて感じでね。
中山道を走りながら、その地を探した。
なかなか見つからず、今なら、ググれば、って発想だけどね。
やっと見つけたら、御代田の宿、そう、旧中山道の、ある時代には隆盛を極めた宿場だ。
ってことがわかったんだけど、現在の中山道はバイパスのようになっていて、そこはちょうど。
盲腸というのか、心臓のバイパス手術みたいなもので、新しい道からは。
取り残され、あるいは、切除され、みたいな具合になっていた。
あれは、なかなかな、静かなインパクトで。
道も消え、宿場も消え、ってわけだ。
さて、やがては消え去るだろう、今日のこの日を始めるとするか。