《鹿島神社境内右手にある戊辰戦役砲台古跡の碑》
分類・歴
慶応4年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦いで始まり、6月16日には早くも薩摩・佐土原・大村の三藩の西軍の兵が平潟港(茨城県)に到着し、上陸を開始しました。
磐城三藩は仙台藩に援軍を頼み300名ほどの兵が送り込まれて、うち80名ほどが平潟に配置され平藩や仙台藩の兵はこれを迎えて戦ったものの、西軍の兵力に圧倒されて関田村へ退却。
しかし、翌17日には平・泉・仙台など同盟軍(東軍)側は平潟奪還に繰り出しましたが西軍が応戦し状況は劣勢のまま、関田付近での戦闘が繰り広げられました。
これが磐城における戊辰戦争の幕開けとなりました。
その後、新田山・添野・植田八幡山・二ツ橋などでの攻防が繰り返され、7月10日の鹿島七本松の戦いに至ります。
薩摩藩の巧妙な作戦によって平・仙台藩の兵は戦死または敗走、鹿島ではこの戦いによる戦死者の供養塔や古跡の碑が各所で見ることができます。
《鹿島神社へ上る階段右側、この石碑の奥にある》
《福正院(走熊)墓地内にある供養碑》
①七本松(走熊)では仙台藩士5名が戦死。その供養碑が走熊の福正院墓地にある。 ②上矢田・上荒川の境に当る険しい山頂には壕跡がある。(註・郷ケ丘団地の開発後は現存せず)
③鹿島神社の階段を挟んだみには大砲を据えた跡地(=写真)があり、昭和2年2月10日に造立さ
れた石碑がある。
④獺沢(おそざわ)地区には地元の2名が昭和45年に明治100年を機会とし、無縁仏となった兵の
霊を供養するため、同地に碑を建てた。
分類・歴
慶応4年(1868)1月に鳥羽・伏見の戦いで始まり、6月16日には早くも薩摩・佐土原・大村の三藩の西軍の兵が平潟港(茨城県)に到着し、上陸を開始しました。
磐城三藩は仙台藩に援軍を頼み300名ほどの兵が送り込まれて、うち80名ほどが平潟に配置され平藩や仙台藩の兵はこれを迎えて戦ったものの、西軍の兵力に圧倒されて関田村へ退却。
しかし、翌17日には平・泉・仙台など同盟軍(東軍)側は平潟奪還に繰り出しましたが西軍が応戦し状況は劣勢のまま、関田付近での戦闘が繰り広げられました。
これが磐城における戊辰戦争の幕開けとなりました。
その後、新田山・添野・植田八幡山・二ツ橋などでの攻防が繰り返され、7月10日の鹿島七本松の戦いに至ります。
薩摩藩の巧妙な作戦によって平・仙台藩の兵は戦死または敗走、鹿島ではこの戦いによる戦死者の供養塔や古跡の碑が各所で見ることができます。
《鹿島神社へ上る階段右側、この石碑の奥にある》
《福正院(走熊)墓地内にある供養碑》
①七本松(走熊)では仙台藩士5名が戦死。その供養碑が走熊の福正院墓地にある。 ②上矢田・上荒川の境に当る険しい山頂には壕跡がある。(註・郷ケ丘団地の開発後は現存せず)
③鹿島神社の階段を挟んだみには大砲を据えた跡地(=写真)があり、昭和2年2月10日に造立さ
れた石碑がある。
④獺沢(おそざわ)地区には地元の2名が昭和45年に明治100年を機会とし、無縁仏となった兵の
霊を供養するため、同地に碑を建てた。