いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
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鹿島の表示が消えた時代

2018-07-27 06:20:23 | Weblog

                                           分類:地 

   昭和30年代は、日本国内において高度経済成長が進み始めた頃でもあり他県の寒村からは、東京方面への集団就職がニュースになっていた頃でした。
 暫らくして、家族から離れて就職していった人々の哀歓を歌った、伊沢八郎の「ああ上野駅」が大ヒットしたのもその時代でした。

 そういう中で、鹿島地域の生活状況も決して良いとは云えませんでした。
 又、町村合併の繰り返しで市名や地名がコロコロと変更されて石城郡、磐城市(一部、常磐市)、そして昭和41年からは現在の【いわき市】になりました。
                        《木造2階建ての鹿島村役場が存在した頃の写真=昭和41年まであった》

  【鹿島村】として存在していたのは石城郡の時で、昭和28年10月に磐城市小名浜町に合併編入された時には、その間「鹿島」の住居表示は一時的に消滅してしまった時期があります。
 当然、手紙の宛先は「鹿島」が「小名浜町」にとって代わって「磐城市小名浜町」の次に大字名と小字名を書くので鹿島の二文字はなくなってしまいました。
 昭和41年に「いわき市」になってから、いわき市の下に「鹿島町」が付けられるようになり、宛名は「いわき市鹿島町」として復活したのでした。                                              小名浜町に合併時、鹿島の人口は2,362人で、小名浜町は26,608人でした。

 ※磐城市成立の直前、昭和29年3月、松久須根、上矢田、三沢の三大字は湯本町に編入されて、3日後には常磐市の市政施行とともに常磐市の一部となったために、この3地区には今でも「鹿島」の名称は付きません。
 逆に宅地造成された若葉台団地や、いわきニュータウンは鹿島町を名乗っています。
                   《この道の突き当りが役場だった》       《鹿島村役場の跡地=階段部分》    


 当時の鹿島を総じていうと、上矢田に発する矢田川と、蔵持地区を横断してきて矢田川に合流する蔵持川の両岸に、水田を持つ純粋な農村地帯でした。
 主要地方道いわき古道線は旧道となって、その側を並行して走る「平⇔小名浜線」の道路は、俗に鹿島街道という愛称で呼ばれるようになりました。
 この道路こそが鹿島の大動脈ともいうべきもので、昭和38年の新産業都市指定前後に、まず船戸地区に団地が造成され、道路の整備とともに大型商店の進出、食堂、喫茶店などが数多く建設されたのでした。

 常磐・江名港線(県道48号)も鹿島街道を交差するようになり、正に交通の要衝と化しました。


 
 
 

コメント
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