いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

明治・大正期、鹿島の事情

2018-07-12 07:32:17 | Weblog
           《農地を手離して小作人になった農家もあった》                   
                                                                                    
                              分類:地 

 旧・鹿島村に属する村々(現在の鹿島町9地域と常磐上矢田町、松久須根町、三沢町)の明治維新からの経済は、大半の農家が米作により生計を立てていましたが、中には養蚕・コンニャク・薪炭を副業としていた家もありました。
 しかし、あくまでも米作主体の鹿島村でしたから凶作が数年続くと、生活面に於いて大きな影響を受ける事は避けられませんでした。 その例が明治35年以来、連続しての不作が続き、更に明治37,8年の戦争も禍して村内の疲弊は高まるばかりでした。

 この頃、村民は暮らし向きが良くないばかりに父祖伝来の田畑を他町村の有力者に土地を手離し、生計を保たなければならない事態に陥った家が増えてきたのです。
 その主な買い手先としては、平の「釜屋(諸橋家)」と、泉(下川)の「江尻家」などが挙げられます。
 大正15年の記録からすると、水田247町7段5畝27歩の内、12町歩(約36,000坪)ほどは他町村居住者の所有地になっていました。

 小作者が毎年納める小作米の量は 「釜屋」 を例にとると、1反歩(約300坪)につき1石(10斗)でこれが一般的のようでしたが、田圃には上田・中田・下田というような差があるので、耕作地によっては小作米の量も微妙に異なっていたのです。

 ついでに大正15年当時の馬と鶏(ニワトリ)の数を列記すると次のようになります。
 総戸数255戸に対して 馬155頭(牡143頭・牝12頭) ※1,6戸に1頭
              鶏 1,234羽 ※1戸当り4,8羽
                                                 
                       《 釜屋の全景 》              平成19年(2007)

 「釜屋」の創業は元禄13年(1700)という老舗で、後に 「釜屋金物株式会社」、建築資材卸会社 「諸橋」 と名称が変わって営業していましたが、平成14年(2002)にその長い歴史に幕を閉じました。由緒ある建物は現在、壊さずに改造して多目的ホールをメインとした総合施設に生まれ変わり「SARON de 蔵」として店蔵は、見本市や物産展、ミニコンサート、美術展などが開ける多目的ホールで、袖蔵にバー「KURA BAR」、両蔵をつなぐ石張り建築部分には焙煎喫茶「香楽(からく)」が出店しています。
 
          

        

        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする