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小松基地問題研究会

1833年(天保4年)輪島を襲った津波について

2011年09月08日 | 原発(志賀原発)
1833年(天保4年)輪島を襲った津波について

 178年前の1833年12月7日に、山形県沖を震源とする地震(M7.7) と津波が発生した。
 加賀藩史料によれば、地震の後、約7.2mの津波が輪島沿岸に押し寄せ、河原田川を1㎞逆流した。「大船なんど7,8町(700~800m)計の山の手に打上りたり」と記されている。輪島周辺の1459軒の内、207軒の家屋が流出、111軒が全壊、54軒が半壊の被害を受け、48人が溺死した。
 加賀藩は河井、鳳至、海士、輪島崎の4ヶ所に合計300石の救米(返済不要)と251石の貸米(15ヶ年賦割返済)を与え、被災者を救済した。また、「塗物運上など小物成の1年分用捨」という措置を執った。塗物運上とは漆器にかけられる租税、小物成とは雑税のことで、1年分免除するということである。村内の富裕な商人は被災者に「見舞いの品」を配布した。(大林綾「天保4年加賀藩輪島町における津波被害について」参照)

 1833年に輪島を襲った津波は山形県沖を震源とする地震だったが、能登半島周辺にはいくつもの活断層があり、大きな地震がたびたび起きている。石川県に被害を及ぼした主な地震を以下に摘記する。
【 西暦(和暦) 地域(名称) M】
●1729年8月1日(享保14) 能登・佐渡 M6.6~7.0
●1799年6月29日(寛政11) 金沢地震 M6.9±1/4
●1833年12月7日(天保4) 羽前・羽後・越後・佐渡 M7.7
●1891年10月28日(明治24)濃尾地震 M8.0
●1892年12月9日(明治25) 能登半島 M6.4 (11日にも同程度の地震)
●1933年9月21日(昭和8) 能登半島 M6.0
●1944年12月7日(昭和18) 南東海地震 M7.9
●1948年6月28日(昭和23) 福井地震 M7.1
●1952年3月7日(昭和27) 大聖寺沖地震M6.5
●1961年8月19日(昭和36) 北美濃地震M7.0
●2007年3月25日(平成19) 能登半島地震M6.9

 このように、能登半島を揺るがす地震が度々起きており、志賀原発のすぐ近くにも活断層が走っており(写真)、去る4月9日の「東日本大震災と石川県の地震・津波防災を考える講演会」(主催:北陸自然災害懇話会)では、金沢大学の平松良浩准教授(地震学)は「県内でも能登で最大11メートル、加賀で2~3メートルの津波が予想されている」と話した。(2011.9.2「金沢経済新聞」参照)
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 以下、金沢近世史料館が展示から除外した「加賀藩史料(第44編)」を添附する。

十月廿六日。鳳至郡輪島海嘯に襲はる

「御家老方等諸事留」(362P~)
(前略)右前月二十六日地震後、海汐二百間程引去、無程以之外高波に而、川筋通田地等渚より七町計打揚、川筋無之ヶ所三町計打揚、近き人家等暫時引去。右は三度計も打上、最初より三度目一番高く、波之高さ五・六間にも相成、打かぶせ候由、改方手合聞合之内にも有之。此分は御郡奉行渡瀬七郎太夫より月番へ相達候分抜書致置候事。(以下略)

「輪嶋并近浦津波一件」(368P)
(前略)同日八ツの下刻地震大にして、久しく震動仕申候。然ども半時には過不申。地震の後風止て、海面白く高うねり波而已にて御座候。然初七つ時に至り、何となく俄に満汐大波のごとく、濱かしら或は家居までもうち上、夫より汐引出し申処、凡五六町ばかりも引汐仕申候。尤汐の干あがり、濱となり候所は三町計にて御座候。扨又汐之引行候事甚はやく、川の瀬のごとく鳴候て引申候。汐引詰候て後、やゝ淀有様に覚申候。五・六町沖にて波を畳あげ、其高事山の如くに相成申候。それより寄来事是又甚はやく御座候。波外場間ぢかくなり候波の高さ凡四間計うちあげ候。波の際限所々不同有之、川込は凡十町ばかりにて御座候。常の波は頭より折候てしろく、津波は下ダ候て平等に白く只一枚に寄来申候。如此大なる波三枚ばかり御座候。しかれども漸々に引汐少く、波又劣申候。自然夕景までも少々宛満干有之、夜に入候ても汐の狂ひ御座候。扨波のいろは薄く濁て相見申候。味の儀其節溺候人に承り候へば、泥水を呑心地にて敢て汐の味無之と覚候のよし語申候。近浦之儀津波の模様指て異事も無御座、最初波の寄来る如く満汐有之、夫より弐百間計も引汐仕しかへし、後波寄来申候得共多分は濱頭迄に納り申候。然共都而夫一様、所々不同御座候。津波前後の模様、廿二・三日頃より廿五日夜まで気候不順成温さにて、海底の鳴候事も御座候。津波の後は気候定まり申候。
 右津波の様子有増如此に御座候。誠に稀代の大変に而、人々周章中に御座候得ば、委事は相知不申候事。

「春藤鳳兮閑時随筆」(369P)
 過る年十月、輪島の津波後四・五日にして、友能君と同道して知るべを見舞ふに、輪島近き海辺に、誰とも知れず死たる人々に菰なんど着せて有りしが、いと哀むに堪へたり。畳・戸障子の潰たるもあまた波に打寄せ、むざんの事也。大船なんど七・八町計の山の手に打上たり。財宝の始末に死たるものあり。又仏の始末とて立戻り、波に引かれたる人あり。哀むべし。津波に引かれたる人々のうちに、一人戸板に乗りて、大川の水筋を橋の上も乗越して、はるかの岸へうかび上りぬ。あやうき命を助らる。

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