アジアと小松

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小松基地問題研究会

『日本の核開発 1939~1955』を読む

2012年03月16日 | 読書
「第1部 戦前・戦中編」

 アメリカのマンハッタン計画(米、英、加)によって、原爆が開発され、広島・長崎に投下された。アメリカの研究規模はウラン鉱石の確保の量からして、日本とは比べものにならない(1944年10月までに3670tの酸化ウラン+1946年4月までに2456t、日本は1t未満)

 ドイツでは、1945年3月に原子炉の臨界実験がおこなわれた。日本では、1940年頃から、理研(仁科芳雄)と陸軍によって調査が始まったが、「予算は2000万円、ウラン1t未満」という小規模な研究だった。

 1942~44年に、海軍技術研究所からの依頼で「物理懇談会」が開かれたが、伊藤庸二は「米国といえども今時の戦争に於いては、恐らく原子力を活用することは困難ならむ」、千藤三千造は「アメリカでも恐らく困難であろう」と基礎研究の域を出なかった。

 しかし、1942年12月、仁科芳雄は「お国のために役立つ研究(軍事応用研究)」の決意を固め、1943年、東条英機と会った。東条は「米独で原爆製造計画が相当進んでいる。遅れたら戦争に負ける」と言って、安田武雄に「陸軍航空本部が中心となって核開発」を命令した。

 理研の核開発は仁科の頭文字をとって「ニ号研究」と呼ばれ、1944年7月20日からウランの分離実験を開始した。

 海軍では、1944年に京大に研究を委託(F研究)した。京大では「速い中性子」の反応を研究した(広島型原爆に相当)。東京計器で遠心分離法によるウラン濃縮実験を行ったが、製品にならなかった。

 仁科芳雄は陸軍にウラン資源(2t)の確保を依頼した。軍はドイツの占領地チェコからピッチブレンドを入手し、2隻の潜水艦で搬送したが、米軍に電報を傍受されていて、1隻は撃沈され、もう1隻(560kgの酸化ウラン)はドイツが敗戦した時に投降したので、日本には届かなかった。

 1944年6月から朝鮮黄海道の菊根鉱山でウラン鉱石を採掘し、4~5%の酸化ウランを含むフェルグソン石3tを確保した。8月からは福島県石川町で、中学生を動員して、ウラン鉱石を750kg採掘したが、敗戦で使えなかった。

 1945年4月14日の空襲で、理研の熱核分離塔が焼失した。分離測定実験は失敗し、理研での計画中止を決定した。仁科研究室の宇宙線研究室が金沢に疎開しており、金沢で分離塔建設構想が立てられ、陸軍は大阪で分離塔(20m)を建設したが、敗戦を迎えた。

 8月6日に広島に原爆が投下され、仁科芳雄は広島に向かった。玉木英彦への手紙には「…万事は広島から帰って話をしよう。それ迄に理論上の次の問題を検討して置いて呉れ給へ。普通の水の代りに重水を使ふとしたら、ウランの濃縮度はどの位で済むか、又そのウランの量は如何?」と、あくまでも原爆製造に意欲を持っていた。

 陸軍参謀中佐の新妻清一は「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト。コレニ関スル発表モサケルコト」と通達し、8月14日の仁科芳雄の談話(8/16朝日)からは残留放射能に対する注意の部分が削除されるなど、原爆の被害(特に2次被害)の危険性を警告せず、軽視したことによって、入市被爆者11万人を生みだした。

 「終戦勅書」には「敵は新たに残虐な爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷」と書かれているが、アメリカも残虐だが、日本も残虐だったことを忘れてはならない。

 荒勝文策「若い研究者を戦場に向かわせないために原爆計画に関与」、武谷三男「この研究をやっておれば、兵隊にとられることもないという点にも魅力があった」と語っている。武谷は、1944年5月に特高に逮捕されたが、陸軍の核開発に参加していたので釈放された。

 核開発研究者・技術者は残虐兵器原爆の製造に関与したが、成果が小さかったので非難されなかっただけであり、戦争責任から逃れることは出来ない。

 (山崎正勝著 績文堂 2011.12発行 3200円)
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