
20250306 尹奉吉記念館について
『北国新聞』(2025/03/04)に「尹奉吉記念館」の活字が躍っている。
1月30日付けの『聯合ニュース』で、「金沢市内に尹奉吉記念館建設」のニュースが流れ、2月中旬から右翼団体の街宣車が建設予定地と民団石川事務所周辺で威嚇的街宣を繰り返してきた。
3月2日、街宣車が民団石川の事務所に突入し、3月4日の記事になった。記事を見ると、「尹奉吉は日本軍幹部を殺傷したテロリスト」「犯罪者の追悼記念館の開設を絶対に阻止する」など、右翼団体のための広報紙に堕している。(この記事に、右翼団体は欣喜雀躍)
尹奉吉記念館については、以前から在日有志らが金沢市内で、建設予定地を探していたが、適当な建物が見つからず、なかなか実を結ばなかった。
尹奉吉記念館設置(本町)を主導したKさんとは以前から交流があり、収集してきた尹奉吉関係のデジタル資料を寄贈し、それなりに信頼関係が築かれていたが、昨年以来の尹奉吉碑撤去訴訟真っ只中での『聯合ニュース』は寝耳に水であった。
右翼団体は尹奉吉碑にたいして、くりかえしいたずらや妨害行為の挙に出ていた。加えて尹奉吉記念館は右翼団体による新たな攻撃対象となり、建物があれば事足りるという問題ではく、開館後の防衛体制を射程に入れて準備すべき問題であり、金沢で、尹奉吉を理解し、受けとめようとしている人々(在日+日本人)とともに進めなければ、長期的に維持することが困難な課題である。
1932年4月29日とは
『北国新聞』は、差別排外主義を扇動する右翼団体を代弁しても、マイノリティ在日の胸裡に閉じ込められた不安と怒りを引き出そうとはしない。両者とも、1932年4月29日に、なぜ日本軍が上海の虹口公園にいて、何をしていたのか。なぜ尹奉吉がその時期に上海にいたのかを問わず、歴史に真っ正面から向き合う姿勢が見られない。
日本の上海租界(植民地だ!)は日清戦争後の1896年7月に締結された日清通商航海条約(不平等条約)で設けられ、日本人居留民の「安全」を確保するために、日本軍が常駐していた。とくに、1931年9月の満州事変後、上海では排日・抗日運動がおこり、その矛先をそらすために板垣征四郎は田中少佐を使って、中国人に日本人僧侶を襲撃させ(1932/1/18)、その事件を口実にして在上海中国人にたいする弾圧を強めた。
1月19日、日本青年同志会が抗日運動の拠点を襲撃し、その帰途に中国人巡警と争いになり、双方に死傷者が出た。1月22日、日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、陸戦隊員925人を上海に送り、28日、さらに陸戦隊1000人、軍艦から1700人を上陸させ、第19路軍との戦闘が始まった。
1月31日、巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、空母2隻、陸戦隊員7000人を上海に送った(2月2日には金沢第九師団も加わった)。3月3日停戦となったが、結果は日本軍戦死者769人、負傷者2322人、中国軍戦死者4086人、負傷者9484人、行方不明者756人、中国人住民の死者6080人、負傷者2000人、行方不明者14000人、何という残酷な侵略戦争(大量無差別殺戮)か。その戦勝祝いとして、4月29日上海虹口公園で祝賀会が開かれたのである。
では、なぜ尹奉吉がその時上海にいたのか。1910年以降朝鮮は日本の植民地とされ、軍事支配の下で、朝鮮人は呼吸(いき)も出来ない状況に追いつめられていた。1930年3月、28歳の尹奉吉は「丈夫出家生不還」と書き遺して、故郷を後にして、上海に向かった。1931年上海に辿り着き、そこは朝鮮独立運動の坩堝だった。金九と合流し、韓人愛国団のメンバーとして、1932年4月29日を迎えたのである。
右翼団体はこのような歴史的背景(朝鮮植民地支配と中国侵略戦争)に見向きもせず、白川義則上海派遣軍司令官らが報復を受けたことだけを切り取って、街宣車に旭日旗を掲げて在日を威圧しているのである。
このように歴史を正視せず、差別排外主義を煽る右翼団体にたいして、日本人こそが立ちはだからねばならない。
『北国新聞』(2025/03/04)に「尹奉吉記念館」の活字が躍っている。
1月30日付けの『聯合ニュース』で、「金沢市内に尹奉吉記念館建設」のニュースが流れ、2月中旬から右翼団体の街宣車が建設予定地と民団石川事務所周辺で威嚇的街宣を繰り返してきた。
3月2日、街宣車が民団石川の事務所に突入し、3月4日の記事になった。記事を見ると、「尹奉吉は日本軍幹部を殺傷したテロリスト」「犯罪者の追悼記念館の開設を絶対に阻止する」など、右翼団体のための広報紙に堕している。(この記事に、右翼団体は欣喜雀躍)
尹奉吉記念館については、以前から在日有志らが金沢市内で、建設予定地を探していたが、適当な建物が見つからず、なかなか実を結ばなかった。
尹奉吉記念館設置(本町)を主導したKさんとは以前から交流があり、収集してきた尹奉吉関係のデジタル資料を寄贈し、それなりに信頼関係が築かれていたが、昨年以来の尹奉吉碑撤去訴訟真っ只中での『聯合ニュース』は寝耳に水であった。
右翼団体は尹奉吉碑にたいして、くりかえしいたずらや妨害行為の挙に出ていた。加えて尹奉吉記念館は右翼団体による新たな攻撃対象となり、建物があれば事足りるという問題ではく、開館後の防衛体制を射程に入れて準備すべき問題であり、金沢で、尹奉吉を理解し、受けとめようとしている人々(在日+日本人)とともに進めなければ、長期的に維持することが困難な課題である。
1932年4月29日とは
『北国新聞』は、差別排外主義を扇動する右翼団体を代弁しても、マイノリティ在日の胸裡に閉じ込められた不安と怒りを引き出そうとはしない。両者とも、1932年4月29日に、なぜ日本軍が上海の虹口公園にいて、何をしていたのか。なぜ尹奉吉がその時期に上海にいたのかを問わず、歴史に真っ正面から向き合う姿勢が見られない。
日本の上海租界(植民地だ!)は日清戦争後の1896年7月に締結された日清通商航海条約(不平等条約)で設けられ、日本人居留民の「安全」を確保するために、日本軍が常駐していた。とくに、1931年9月の満州事変後、上海では排日・抗日運動がおこり、その矛先をそらすために板垣征四郎は田中少佐を使って、中国人に日本人僧侶を襲撃させ(1932/1/18)、その事件を口実にして在上海中国人にたいする弾圧を強めた。
1月19日、日本青年同志会が抗日運動の拠点を襲撃し、その帰途に中国人巡警と争いになり、双方に死傷者が出た。1月22日、日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、陸戦隊員925人を上海に送り、28日、さらに陸戦隊1000人、軍艦から1700人を上陸させ、第19路軍との戦闘が始まった。
1月31日、巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、空母2隻、陸戦隊員7000人を上海に送った(2月2日には金沢第九師団も加わった)。3月3日停戦となったが、結果は日本軍戦死者769人、負傷者2322人、中国軍戦死者4086人、負傷者9484人、行方不明者756人、中国人住民の死者6080人、負傷者2000人、行方不明者14000人、何という残酷な侵略戦争(大量無差別殺戮)か。その戦勝祝いとして、4月29日上海虹口公園で祝賀会が開かれたのである。
では、なぜ尹奉吉がその時上海にいたのか。1910年以降朝鮮は日本の植民地とされ、軍事支配の下で、朝鮮人は呼吸(いき)も出来ない状況に追いつめられていた。1930年3月、28歳の尹奉吉は「丈夫出家生不還」と書き遺して、故郷を後にして、上海に向かった。1931年上海に辿り着き、そこは朝鮮独立運動の坩堝だった。金九と合流し、韓人愛国団のメンバーとして、1932年4月29日を迎えたのである。
右翼団体はこのような歴史的背景(朝鮮植民地支配と中国侵略戦争)に見向きもせず、白川義則上海派遣軍司令官らが報復を受けたことだけを切り取って、街宣車に旭日旗を掲げて在日を威圧しているのである。
このように歴史を正視せず、差別排外主義を煽る右翼団体にたいして、日本人こそが立ちはだからねばならない。