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小松基地問題研究会

『コロニアリズムと文化財』(荒井信一 2012年 岩波新書)を読む

2017年02月24日 | 読書
『コロニアリズムと文化財』(荒井信一 2012年 岩波新書)を読む

 2017年1月26日、韓国大田(テジョン)地裁が「観世音菩薩座像」の所有権を韓国・浮石寺にあるとの仮処分決定がだされた。日本のマスコミはこぞって地裁決定を非難し、排外主義をあおりたてている。
 発端は、2012年対馬の海神神社の重要文化財「銅造如来立像」(統一新羅時代)、観音寺の長崎県指定有形文化財の「銅造観世音菩薩坐像」(高麗時代)、多久頭魂神社の長崎県指定有形文化財の「大蔵経」が盗まれ、韓国で発見されたという事件である。
 忠清南道瑞山市にある曹渓宗の浮石寺(プソクサ)が「観音寺の銅造観世音菩薩坐像は、元々倭寇に略奪された仏像である」と主張して返還しないよう求めた。観音寺の田中節孝前住職は、「仏像は李氏朝鮮時代の仏教弾圧から守るために対馬に持ち込まれたもの」と語っているが、大田地裁は「所有権は浮石寺にあり、正常ではない過程で観音寺に移された」として、「観音寺がこの像を正当に取得したことが訴訟で確定するまで、韓国政府は日本政府に引き渡してはならない」と判断し、仏像の浮石寺への引き渡し命じた。
 対馬の事件に触発されて、頭書の『コロニアリズムと文化財』を読んだ。著者は「本書では、文化財そのものの歴史ではなく、文化財問題を引き起こした植民地的な状況・構造を主題とした」と述べているが、ここでは、まず何が略奪されたのかについての「事実確認」からはじめたいと思う。また、本書のなかに黄寿永著『日帝文化財被害資料』(1973年初版―2015年増補版)が紹介されており、次の読書課題だ。

江華島事件
 文化財略奪の歴史は1875年江華島事件に遡る。日本では、給水を理由にして、水域に入った雲揚号に、朝鮮側が不法な砲撃を加えて始まった事件とされてきたが、2002年に発見された資料(雲揚号の井上良馨艦長の報告書)によれば、井上艦長側から仕掛けた3日間にわたる本格的な武力行使であった。その報告書には、文化財の略奪にも言及されていて、永宗城の分捕り品のなかに「兵書類その外」と記載されている。江華島事件関連の書籍56冊が帝室博物館(現東京国立博物館)に収められたという記録がある。
 2010年2月2日付けの『朝鮮日報』には「1908年12月29日江華島の鼎足山にあった史庫に日本の憲兵らが押し入り、21冊の書物を強奪した。…河合弘民が憲兵を動員して起こした事件だった」と書かれている。1919年に、河合弘民が収集した典籍793部2160冊、古文書約2000点が京都大学に売り渡され、「河合文庫」として保存されている。
 1909年には、伊藤博文が収集した高麗青磁器などの古美術品のなかで、最も優れた磁器や古美術品103点を日本に持ち帰り、明治天皇に献上した。

日清戦争
 1894年日清戦争が始まると、帝国博物館総長・九鬼隆一は「戦時清国宝物蒐集方法」という方針をだして、戦争に便乗して清国と朝鮮の文化財収集を進めた。収集は陸軍大臣または軍司令官の指揮に従って、兵員を協力させておこない、日本に到着後の文化財は『帝室の御蔵または帝国博物館』の所蔵品とすることとした。
 日本軍は日清戦争・宣戦布告前の1894年7月23日、ソウルの景福宮に押し入り、王宮を占拠した。この戦闘を指揮した大鳥圭介日本公使は宮中の財貨・宝物を略奪した(「宮中の財貨、宝物、列代諸王の珍奇な宝物や法器、宗廟の酒器のたぐいは、ことごとく、行李に入れて仁川港に運搬し、持っていった。国家が数百年蓄積してきたものが、一朝にしてなくなった」)

韓国併合前から
 1901年には京釜鉄道、1902年には京義鉄道が起工された。軍事力を背景にした鉄道建設で多くの墳墓が破壊され、韓国の文化財を荒廃させ、墓の祭器が日本へ流出した。
 韓国併合前の1902年ごろから関野貞は韓国古建築調査をおこなった。併合後、朝鮮総督府は関野貞を責任者として古蹟調査をおこなった。関野貞の「楽浪研究」は、出土した多量の豪華な遺物が一般人の間にも楽浪遺物の採取ブームを引き起こし、結果的には1920年代を中心に盗掘によって、楽浪遺跡が壊滅的に破壊された。1923~翌年にかけて500基を超える楽浪古墳が盗掘された。1935年以降も楽浪での古墳の私堀がおこなわれ、コレクターの手におびただしい遺品が集まった。
 1906年、今西龍は「盗掘はしきりにおこなわれ、その盗掘品はことごとく日本商人の手に帰し」と書いている。古代から大事にされてきた慶州古墳の受難は日本の侵略とともに始まった。

韓国併合後
 1910年併合の際、朝鮮総督府が大韓帝国政府、宮内府、韓国統監府から引き継いだ図書11万冊を日本の文化財にした。
 1912年、江原道原州付近の法泉寺の玄妙塔が日本人に盗まれるという事件がおきた。玄妙塔とは智光国師の舎利(遺骨)を祭った仏塔である。この石塔は京城の某紳商に売られ、さらに大阪の住友財閥が巨費を投じて購入し、住友家の菩提所の飾りとして移築された。
 日本の宮内大臣・田中光顕は開城付近の扶蘇山・敬天寺にあった十層石塔を東京の自宅に持ち帰った(その後返還)。気象観測所技手・和田雄治は1911年10月に江原道で発見した白玉仏を帝室博物館に献納した(1966年返還)。和田雄治は測雨器を私物化し日本に持ち出して、1923年にロンドン博物館に寄付した。
 1915年「始政5年記念朝鮮物産共進会」(景福宮)が開かれ、各地から集められた文化財は原産地に戻されなかった(利川の石塔は大倉喜八郎に下付された。開城の奉経塔、原州の玄妙塔など)。
 1921年、金冠塚(5世紀末から6世紀初め)は諸鹿央雄によって私堀された。1926年に金冠塚出土品の盗難事件がおきたが、金冠塚遺品の管理者諸鹿央雄自身の仕業だといわれている。1934年、諸鹿は発掘物故買で検挙された。諸鹿が持ち出した玉勾玉が神戸の白鶴美術館に所蔵された。

略奪文化財の返還
 1949年4月7日、韓国外務部政務局がGHQに提出した「対日賠償請求調書」第1巻では、文化財関係は書籍212種、美術品及び骨董品837種、及び地図原板であった。これらは帝室博物館所蔵のものである。
 日韓交渉で、韓国文化財の返還がしばしば問題になるが、1958年4月、陶製紘坏50個など東京国立博物館所蔵品106点(1918年古蹟調査による三国時代の古墳の出土品)を返還した。金製垂下り飾りとともに帝室博物館に所蔵されていた。返還対象品=国有物は東京、京都両大学分と東京国立博物館所蔵品で、朝鮮出兵時に奪った貴重図書は「複製提供」された。協定後に返還された典籍は、統監府所蔵分(119部90冊)、第2代統監曽祢荒助献上本(152部762冊)で、宮内庁所蔵のものに限られていた。
 初代朝鮮総督の寺内正毅は昌徳宮内の古建築を山口県内に移築し、そこに文化財を陳列した(寺内文庫)。中国・朝鮮関係の古書1万冊余があった。1922年には朝鮮本432冊、名家の筆による手紙など191冊が含まれていた。山口女子大学に寄付され、1996年に書画134点を韓国の慶南大学に寄贈した。
 咸鏡北道吉州の北関大捷碑は日露戦争時に日本に持ち出され、靖国神社の境内に置かれていたが、2005年に韓国に返還され、その後吉州に戻された。
 寺内総督によって、朝鮮王朝実録が東京大学に寄贈された。全794冊のほとんどが関東大震災で焼失し、74冊が残った。そのうち27冊は1932年に京城大学に移管された。2006年に残りの分が返還された。
 1922年、朝鮮総督府は朝鮮王室儀軌を宮内庁に寄贈した。2001年宮内庁に王室儀軌の存在が明らかになり、2006年王室儀軌返還運動が本格化し、2010年韓国国会が返還要求決議を可決し、2011年返還された(81部167冊)。
 1918年朝鮮総督府博物館から大倉喜八郎に下付された利川の五重塔の返還運動が始まっているが、まだ実現していない(現在大倉集古館にある)。

終止符を打つ責任
 帝国主義の時代に世界に拡大した文化コロニアリズムによって、学術的に貴重な古文献、美術品などが植民地から帝国主義国に流出し、未だに欧米や日本の博物館を満たしている。そして、日帝は韓国(朝鮮)から略奪してきた膨大な文化財の返還を今も渋っている。侵略と植民地支配は進行形であり、アジア人民の告発・糾弾に応えて、終止符を打つ責任が私たちにこそある。
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