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小松基地問題研究会

『過労死 その仕事、命より大切ですか』(牧内昇平2019年3月)

2019年03月31日 | 読書
『過労死 その仕事、命より大切ですか』(牧内昇平2019年3月)

 来年3月に定年を迎える労働者からプレゼントされた1冊です。
 読み進めていくと、友人がこの本をプレゼントしてくれた理由がわかりました。「第8章 心の病にたおれた『街の郵便屋さん』」でした。
 そう、その友人は郵政労働者だったのです。
 「自爆営業」の話しも出てきます。
 連れあいの友人の息子さんも郵政労働者で、年の瀬が近づくと、申し訳なさそうに「今年は、何枚買ってもらえる」という電話があり、受け取りに行くと、自家菜園で採れた野菜のおまけをつけてくれるのです。

 ちょっと不満なのは、この本が自己解決の手引き書のようで、原因者である資本にたいするたたかいが希薄な気がしました。とはいえ、被害者と家族の涙と怒りを共有することが最初の第一歩であり、そしてたたかう労働組合こそが、この不条理の根を絶つ「アルキメデスのテコ」であるという結論を必要としているのではないでしょうか。【はじめに】を転記します。

【はじめに】
― ぼくの夢 ―
大きくなったら
ぼくは博士になりたい
そしてドラえもんに出てくるような
タイムマシーンをつくる
ぼくは
タイムマシーンにのって
お父さんの死んでしまう
まえの日に行く
そして
「仕事に行ったらあかん」て
いうんや


 これは、お父さんを亡くした6歳の男の子、マー君の言葉です。テレビを見ながら何げなくつぶやいたのを、お母さんがノートに書きとめていました。マー君のお父さんは働きすぎが原因で自ら命を絶ってしまいました。亡くなる直前にはひどいうつ病になっていたようです。いわゆる「過労死」、もう少し詳しく言えば「過労自死」です。マー君のお父さんが亡くなったのは2000年3月のことですから、すでに20年近くが過ぎていますが、マー君の「ぼくの夢」は今もなお、過労死遺族の思いを象徴する詩として、たいせつに読み継がれています。

<「仕事に行ったらあかん」て いうんや>
 ここのところを読むたび、わたしは涙がこみ上げてしまいます。大好きなお父さんが急にいなくなってしまったマー君。愛する妻子を残して命を絶たざるを得なかったお父さん。二人の気持ちを思うと胸が苦しくなります。ひとは生きるため、幸せになるために、働いているはずなのに。

 新聞記者のわたしが「ぼくの夢」にはじめて出会ったのは、2012年の秋のことです。「全国過労死を考える家族の会」(以下、家族の会)という遺族団体を取材したのがきっかけでした。

 その頃、家族の会のメンバーたちは過労死ゼロを目指す法律を作るための署名集めをしていました。国や自治体、企業などが一丸となって過労死ゼロをめざして取り組むための法律です。その取材をして新聞記事を一本書く予定でした。

 恥ずかしながら、当時わたしは過労死について通りいっぺんの知識しかありませんでした。毎年100人超が脳や心臓の病気による過労死で労災認定を受けていることは報道で知っていました。職場のいじめ・嫌がらせ(いわゆる「パワハラ」)も少しずつ問題になっていました。でも、そのことを真剣に考えたことはありませんでした。

 はじめは「なんとなく記事になるかな」といった程度の関心で取材を申しこみ、家族の会が都内で行う署名集めに同行させてもらいました。そこで出会ったのが「ぼくの夢」です。正確には覚えていませんが、遺族の方々が配っていた署名用紙かパンフレットかに印刷されていたのです。

<「仕事に行ったらあかん」て いうんや>
 はじめて読んだときからずっと、マー君の言葉が忘れられなくなりました。鈍感なタチなので、「雷に打たれた」などと言うのは適切ではありませんが、心の真ん中に強く印象づけられたのは確かです。そして、時間がたつうちにその存在感はじわじわと大きくなっていったのでそれには個人的なことも関係しています。その頃、我が家ははじめての子どもを授かったばかりでした。わたしが仕事でほとんど家にいなかったため、育児の負担や重圧がすべて妻一人にかかってしまいました。妻は初めての子育てに大きな喜びを感じつつも、しだいに心身の健康を害していきました。

 妻や息子の顔が、マー君の言葉に重なりました。いまわたしが死んだら二人はどうなるのか。幸い自分が大丈夫でも、そのかわりに妻が健康を害したら、わたしの仕事になんの価値があるのか。自分の身勝手さを見せつけられる思いで、マー君の言葉を正視できませんでした。

 わたしはこうして少しずつ、過労死を「自分ごと」として受けとめていったのだと思います。自分のせいで妻の具合が悪くなってしまったのにもかかわらず、それが最悪の場合「死」に至るということが想像できていなかったのです。情けない限りです。

 それ以来、わたしは心を入れ替えたつもりです。仕事と家庭のどちらが自分の人生にとって大切かを考え、家庭に無理がかかる業務は同僚に代わってもらうようになりました。そして、家族の会やこの間題に取り組む弁護士たちに協力してもらい、過労死の記事を書きはじめました。

 取材を進めて最初に感じたのは、「自分も危なかった」という思いです。わたし自身、いわゆる「過労死ライン」(1カ月につき80時間の残業)を超えるような働き方が続いていましたし、そもそも自分が何時間残業しているのか全く把握していませんでした(これはとても心配な状態です)。過労死だけでなく、うつ病の兆候もあったかもしれません。寝言でも仕事の話をしたり、週末に仕事がないと「今日は働かなかった」と自分を責めたりしていました。遺族の方々が語る亡くなった人の様子と重なるところがありました。わたしもいつ倒れてもおかしくない状態だったのです。

 新聞で何回か連載を書き、記事で直接紹介できなかった人も含めると、これまでにお話を聞いた遺族は50人ほどになります。簡単に「話を聞く」と書いてしまいましたが、遺族にとって体験を語るのはとても苦しいことだと思います。皆さんが涙を流して語るのを、こちらも涙をこらえながら必死でノートに書きつけました。

 これから紹介するのは、わたしが取材で出会った11人の方々の生きた軌跡と遺族のその後です。過労死やパワハラ死を「自分ごと」として考えてもらうことが本書の主眼です。先ほども書いた通り、多数の死者が出ていることは、新聞やテレビがとりあげています。けれども、犠牲者の数だけではピンとこないものです。少なくとも「ぼくの夢」と出会い、遺族に取材させてれた家族はどんな気持ちでその後の人生を送っているのか。そうしたことが分かってはじめて、ひとは失った命の重みを実感できるのだと思います。文字数の限られている新聞記事よりも書籍の方が一人ひとりについてたっぷり書けると考えました。

 あなた自身やど家族の中に長時間労働やパワハラで苦しんでいる人はいないでしょうか。友人や同僚たちはいかがでしょうか。「まあ、なんとかなるだろう」と思っているうちに、明日突然その人に不幸が訪れるかもしれません。そうした危機感を持ってもらえれば、今日からの働き方、周りへの接し方がきっと変わると思います。

 「過労死」という言葉が世の中に広まったのは1980年代のことです。それから30年以上たちましたが、今もなお、たくさんの人々が仕事のために命を奪われています。社会として恥ずべきことです。わたしたちは力の限りを尽くして、こんな不条理の根を絶たなければいけません。本書がそのきっかけの一つになればと考えています。

 本書で紹介する方々の氏名については、本人の要望等に即して適宜仮名やイニシャルで表記しました。年齢は取材当時です。亡くなった方の勤務先企業名については、労働基準監督署や裁判所で死亡と仕事との因果関係が認められた場合に限り、実名で表記しました。第8章の日本郵便については、業務の特殊性等に鑑み、実名での紹介が必要と判断しました。


2019年4月4日「北陸中日新聞」
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