アジアと小松

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小松基地問題研究会

20240928 金沢市・全州市姉妹都市について

2024年09月28日 | 歴史観
20240928 金沢市・全州市姉妹都市について

 金沢市は1957年、1985年に平和都市宣言を議決し、2002年韓国・全州市との間で姉妹都市を結んでいる。金沢市は姉妹都市活動の目的を「国境や歴史、文化の違いを越えて双方の市民と市民が直接友情と信頼を基礎に交流し合い、国際間の理解と友好関係を発展させ、平和を愛好する市民の盛り上がる力によって相互交流をはかること」と規定している。すなわち、姉妹都市活動と平和都市宣言は一体の関係にある。
 では、私たち金沢市民(日本人)にとって全州市とどんな関わりがあるのだろうか。日本(金沢市)と全州市(韓国・朝鮮)の関わりを歴史的に概観し、その上で内容豊かな友好関係を築かねばならない。(下記写真は金沢姉妹都市公園のなかの全州市=金沢市HPより)



(1)秀吉による朝鮮出兵
 有史以前から朝鮮半島を経由して、さまざまな文物や技術が日本にもたらされ、私たちは大きな恩恵を受けてきた。しかし、1592年文禄、1597年慶長の「朝鮮征伐」はどれほど全州市(朝鮮)の人々に悲惨を与えただろうか。
 太田軍に従軍した医僧・慶念の『朝鮮日々記』によれば、1597年6月24日に臼杵を出発して、6月29日壱岐、7月5日対馬に渡り、7月7日釜山に上陸し、8月14日南原、8月20日全州、竹山でUターンし、9月9日鎮川、9月19日尚州、10月4日慶州、10月8日蔚山、翌1598年1月5日乗船、1月7日西生浦、1月19日釜山海、1月21日対馬、1月22日壱岐、1月25日相島、1月28日下関小瀬浦、2月2日臼杵に帰帆している。
 8月20日に全州を通過した後の28日の日記には、「此府中(全州)を立て行 道すがら、路次も山野も男女のきらいなくきりすてたるは、二目見るべきやうはなき也」と記している。
 
 仲尾宏の論文「丁酉・慶長の役戦場と慶念」には、「惣(総)頸(首)数三七二六」「判官は大将なれば首を其儘。其外は悉く鼻にして塩石灰を以て壺に詰入。…日本へ進上す」(『朝鮮記』)を引用し、さらに「吉川家文書や鍋島家文書にある『鼻請取状』はいずれも慶長二年八月中旬以降、十月初旬のものであり、その合計数だけでも二万九〇〇〇以上にのぼっている。これに長宗我部、島津、太田、脇坂、加藤らの諸部隊の数を加えるならば、その数は十万を優に超すにちがいない。しかもこの行為は「さるみ」と称された民間非戦闘員を対象とした残虐行為であった」と秀吉軍の残虐さを述べている。
 仲尾論文のまとめで、「丁酉(慶長)役の戦場は苛烈凄惨という以外の言葉をもたない。…この戦役は異なった民族の住む大地を侵掠し、また子ども、女性をはじめとする大量の非戦闘員の殺害、鼻刑、生け捕り――奴隷化を生んだという点で日本史上、類がない。後半の戦場においてはさらにあらゆる村々、宮殿、大寺などの破壊と焼亡が繰り返された」と締めくくっている。

 このように、日本と全州(朝鮮)の間には、上記のような歴史が横たわっており、400年前のこととはいえ、この負の歴史をなかったかのようにして、友好とか信頼とかはないだろう。(下記左地図は太田軍の行動経路=『朝鮮日々記を読む』より)

 

(2)第九師団の朝鮮駐箚
 1905年の日露戦争前夜、1904年3月に日本軍は朝鮮駐箚(ちゅうさつ)軍を編成し、4月には漢城(ソウル)に到着し、朝鮮の軍事的支配に当たった。1910年韓国併合後も、朝鮮人民の独立運動が絶えず、第1次世界大戦開戦の2カ月前、1914年4月に、金沢に本拠を置く第九師団が朝鮮駐箚軍として、朝鮮半島北部の羅南に派遣された。
 1915年8月には、山森金沢市長は朝鮮に渡り、第九師団を激励している。2年間の任務を終えた第九師団が1916年6月に帰国し、卯辰山公園で、石川県と金沢市が盛大に歓迎会を催した(『第九師団戦史』1966年)。
 このように、金沢市は朝鮮民衆の独立運動を鎮圧するために派遣された第九師団を激励しており、このような金沢市の負の歴史に触れることもなく、信頼とか友好などと開き直ることが許されるのだろうか。(下記地図は第九師団が駐留した羅南周辺 右一覧表は『地域の中の軍隊7』170頁より)

  

(3)全州市の女子児童を強制連行
 1940年代には、全州の各小学校から12、3歳の女子児童を強制連行し、富山市の不二越で強制労働させていたという事実がある。全州市・海星小学校卒業の崔〇〇さんと全州小学校卒業の朴□□さんの陳述書があるが、ここでは崔〇〇さんの陳述書の概略を述べる。

 崔〇〇さんは1931年に全州市で生まれ、1944年海星尋常小学校6年生(13歳)の時に、日本人が校長と一緒にやってきて、「日本の不二越に行けば、お金も稼げるし、勉強もできる」、「食事は十分食べられる」、「日本に行ったら、何でも習うことができ、立派な人になれる」と、女子勤労挺身隊への勧誘を受けた。
 1945年2月に、全州を出発した挺身隊員約50人は、釜山で他の地方からの挺身隊(合計650人)と合流した後、3月1日に日本に到着した。
 不二越に到着した翌日から、毎日運動場で、「歩調取れ!」と号令をかけられて、軍隊式の行進をさせられた。3月とはいえ、富山の冬は手が凍るように冷たく、つらい思いを約1カ月もさせられた。上の人の命令に従わないとひどく叱られ、中隊長から平手で頬をぶたれていた。
 崔さんは勧誘のときに聞いた話と全く違うと思い、韓国に帰りたいと思ったが、帰りたいとも言えず、命じられたまま働くしかなかった。
崔さんは軸受2課に所属し,ベアリングの仕上げで、機械の前に1日ずっと立ちっぱなしの仕事だった。朝6時頃起きて7時に出勤し、暗くるまで働かされていた。寮に帰って食事をし、体を洗うと、すぐ就寝時間(午後10時)になった。
 寮での食事は、朝と夜はご飯とみそ汁とたくわんしかなく、各部屋に配られるご飯を一部屋25人程で分けると,茶碗の半分にしかならなかった。ご飯は豆ご飯で,夏には臭くなっていた。
 不二越にいる間、賃金は全くもらえず、お花や書道、勉強も教えてもえず、韓国で勧誘されたときに聞いた話は全くのでたらめだった。1945年10月に、ようやく帰国がかなったが、崔さんは勧誘の言葉を信じて、挺身隊として日本に渡り、一生懸命働いたことを後悔している。
 崔さんは陳述書の最後に、「日本政府と不二越に言いたいことは,私のような幼い子供たちを連れて行ったのに,良心がないということです。良心があるのであれば最低限きちんと賃金を支払ってもらいたいと思います」と訴えながら、受け入れられずに、2022年に亡くなられた。
 日本という国は13歳の少女にむごい仕打ちをしながら、戦後も、その訴えに耳を傾けることなく、この世を去らせたのである。このような歴史的事実に目をつむって、友好とか信頼とかはないだろう。(下記画像は崔さんが卒業した海星小学校の名簿)



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