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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20170119 映画『チリの闘い』―劇場用パンフレットを読む

2017年01月19日 | 読書
映画『チリの闘い』――劇場用パンフレットを読む

 『チリの闘い』という映画が全国で上映されている。第1部『ブルジョワジーの叛乱』、第2部『クーデター』、第3部『民衆の力』の三部作で、約4時間半の大作である。第1部は1975年、第2部は76年、第3部は78年に公開され、日本では、2015年山形国際ドキュメンタリー映画祭で初めて上映された。

 そして、昨年8月東京、10月仙台、横浜、高崎、名古屋、11月札幌、12月松本、大阪、山口、今年1月福島、広島で上映された。広島の兄から、「横川シネマでチリのアジェンデ政権打倒運動のドキュメント『チリの闘い』がかかっている。小便ちびるほど素晴らしい映像です」と、メールがあり、金沢シネモンドでの上映予定を確認したが、「ナシ」という返事だった。

 私たち兄弟にはチリーには深い思い入れがある。父(五男)の兄4人が1910年代にチリに渡航し、長男は1943年に帰国したが、次男、三男、四男はそのまま帰って来なかったからだ。第2次大戦では、日本とチリーは対戦国となり、1943年に四男とその家族は「敵性国民」として強制移住措置となり、解放されたのは1949年だった。

 四男は1973年5月に里帰りした。この映画『チリの闘い』第1部の時期である。アジェンデ政権が覆される過程にあり、9月11日にクーデターでピノチェット独裁政権が始まっている。2度目の里帰り1977年に、ピノチェットのクーデターについて聞いてみたが、曖昧な返事しか返ってこなかった。いとこ(従兄弟・従姉妹)たちは医者、教師などのハイクラスの職業に就いており、サッカー場の人びととは距離があったのかもしれない。

 兄が送ってきた『チリーの闘い/劇場用パンフレット』は人民連合・アジェンデ政権崩壊からピノチェットクーデターにかけての幾つかの問題を提起している。

 1970年に選挙で成立したアジェンデ政権はキューバと国交を回復し、米国資本が経営する銅鉱山や電信電話事業の国有化を図った。大地主の特権を奪う農地改革にも手をつけた。アメリカ(CIA)は大統領選挙の時から選挙に干渉していたが、本格的な転覆のための内政干渉が始まった。

『ブルジョアジーの叛乱』
 第1部『ブルジョアジーの叛乱』は1973年3月からはじまっている。反アジェンデ派は食糧供給や収穫を妨害し、基本的必需品を不足させていた。JAP(ハップ=食糧配給を監督する機関)を無力化しようとしていたが、民衆のたたかいで失敗に終わった。しかし、右翼やブルジョアジーの反政府攻勢が活発化した。CIAから資金援助を受けている「祖国と自由」が人民連合転覆を目的に街頭デモ・集会を開いた。右翼学生の街頭デモ。

 4月19日、国有化されたランカグア銅鉱山の機能をマヒさせるために賃上げストが勃発した。小売商人や運送業者がスト参加を呼びかけた。

 4月27日の政府支持デモが銃撃され、労働者が殺された。葬儀(デモ)には30万人が参列し、反アジェンデ派を糾弾する。民営バス会社は無期限ストの指令を出し、輸送機能がマヒした。対抗して、労働者たちは工場のトラックで人びとを輸送する。

 6月10日、反アジェンデ派鉱山労働者3000人がサンティアゴに到着し、人民連合支持者が対峙し、鉱山労働者はランカグアに戻った。カトリック大学の学生がサンティアゴで反政府デモ。中産階級が徐々にファシズムの仲間に入り始めた。

 6月21日右翼の暴動に反対して、「内戦阻止」をスローガンにして、人民連合派が50万人集会。6月28日、カトリック大学を占拠していた鉱山労働者500人が引き上げて、ストライクは収束した。翌29日、第2機甲連隊が6台の戦車、数台の輸送車を使ってモネダ宮殿を攻撃。

『クーデター』
 第2部『クーデター』は6月29日のクーデターから始まっている。「祖国と自由」の指導者たちはエクアドル大使館に逃げ込み、亡命を申請した。街はクーデターの挫折を喜ぶ無数の人民連合支持者で埋めつくされた。アジェンデはクーデターに強権的態度を期待する人民に応えなかった。

 7月2日、議会は非常事態関連法(大統領が軍の指導者を指名・転属・解任することが出来る権限)を却下した。そして軍部内右派は野放しにされた。軍は銃砲取締法(裁判所の命令や政府の許可なしに、軍が武器の捜索が出来る)によって、バルパライソの工場=産業コルドン(地域労働者連絡会)を包囲し、捜索がおこなわれた(武器は出てこなかった)。目的は労働者を威圧し、脅し、指導者を探し出し、産業コルドンを潰すことであった。捜索の対象は労働者や貧しい人びとだった。

 7月8日、海軍の200人の兵士がバルパライソの墓地を占拠し、武器を探したが何も出てこなかった。軍は19日、20日に労働組合を捜索(襲撃)したが、武器は見つからなかった。全工場国有化をめぐって、労働者統一中央組織やアジェンデと現場労働者の意見が対立した。19日、歩兵がサン・ベルナルドの工場を襲撃。左派は武装防衛準備の必要性を主張した。

 8月3日、陸軍がサンティアゴの産業コルドン、翌4日、プンタ・アレーナスの産業コルドンを襲撃した。合計27回の捜索がおこなわれたが、武器はひとつも発見されていない。経済を混乱させるために、輸送業者が無期限ストに入った(CIAからストライキ参加者に500万ドル)。7月から8月にかけて北米の諜報部で訓練を受けた右派がダイナマイトや焼夷弾を使った攻撃を250回繰り返した。CIAがチリーにおけるストライキの準備を手助けし、資金援助していた。

 9月4日、政府支持者50万人がデモ。アジェンデは国民投票の9月11日実施を決めた。クーデター将校は「人民権力(産業コルドン)は軍にたいし無力であり、マルクス主義者がクーデターに対処する準備が出来ていない」と判断していた。

 9月11朝、海軍がバルパライソを封鎖し、同市を占領した。合衆国の駆逐艦がチリの沿岸に接近しつつあった。午前8時、空軍戦闘機数機が首都上空を旋回。8時20分、大統領に辞任要求。降伏を拒否したアジェンデは午後2時15分死亡した。

 9月11日以降、大衆運動は弾圧され、産業コルドンで生じた武装抵抗は瞬く間に潰された。数千人に及ぶ人びとが虐殺され、スポーツ競技場は強制収容所と化した。 
 
『民衆の力』
 第3部『民衆の力』は革命と反革命の激突の中から「人民権力」の萌芽が…。

 1972年10月11日、運輸業者の反アジェンデストライキが始まり、全国農業協会や全国商店主連合も支持した。輸送手段が断たれ、原料や農産物の供給がストップした。ストライキはアメリカ政府に支援されていた。国内外の大資本を代弁する製造振興協会の雇用主がストライキを呼びかけ、サンティアゴでは民営バスの大半が業務を停止。

 対する労働者は工場のトラックを走らせ、あるいは徒歩で工場に向かった。反アジェンデ派は生活必需品を買いだめし、政府や労働者は監視を強化した。労働者は自らの生産物を直接市民に売り、閉鎖中の商店を開業する。右翼による旅客列車爆破事件が起きる。各工場では、襲撃に備えて警戒態勢が整える。

 10月半ばには、労働者は工場を操業し続け、産業間で資源を交換するための独自のシステムを作り上げた。こうして、産業コルドン(地域労働者連絡会)というチリにおける「」民衆権力」の萌芽が形成された。

 11月10日に、反アジェンデ派のストライキが収束したが、アジェンデ政権に経済的ダメージを与えることに成功した。10月ストライキの攻防(経験)は労働者に「人民権力」の必要性を自覚させ、「民衆の力を作り上げよう」のスローガンが広がった。

 1973年6月までに31の産業コルドンが形成された。労働者は数百の工場を占拠した。学生・主婦・労働者・農民からなる「地域部隊」が組織された。労働者と農民が放棄された農地を占拠し、占拠を合法化するために農地改革法の適用を望んでいたが、地主は法的手段で対抗した。裁判所は右派に支配されていた。

 「人民権力」の種はチリ全土に広がった。国営鉱山や工場で、労働者が経営(計画立案)に参画し始めた。企業に残存する資本主義的構造を崩し、社会主義へ移行するための新たな組織化が始まった。

 産業コルドンは労働者・労働組合を動員し、地域的・地方自治組織の創造を狙った。しかし、ピノチェットによるクーデターによって、それは中断を余儀なくされた。

クーデターから何を学ぶのか
 1970年大統領選挙による社会党の勝利から1973年クーデターに至る過程と1959年キューバ革命を対比して考えたい。

 第1に、キューバはアメリカに対する警戒心を片時も緩めなかったが、チリではまったく不十分だった。チリ軍はアメリカで武装訓練をおこない、CIAによる資金援助で反革命ストライキが繰り返しおこなわれ、アジェンデの経済体制がずたずたに引き裂かれた。生活物資が不足し、アジェンデ政権への不信へと誘導された。

 第2に、キューバ革命は「敵はバチスタ個人ではなくそれを支えた軍隊、警察、準軍事組織など暴力装置そのもの。バチスタの持つ権力機構のトータルな破壊こそが最終目標」とし、ゲバラは徹底して貫徹したが、チリではブルジョア軍隊はそのまま温存され、やりたい放題だった。銃砲取締法によって合法的に革命の拠点を捜索し、たたかいを解体していた。軍を解体できなかったが故に、その軍によってアジェンデ社会主義は絞殺された。

 第3に、キューバでは、工場を接収し協同組合管理に移行し、大農所有の農地を貧農に分配したが、アジェンデ政権は銅鉱山や電信電話事業の国有化、農地改革をおこなったが、労働者農民による生産管理が不十分だった。基幹産業がブルジョアジーに握られたままであり、アジェンデ政権を倒すために反革命ストライキを頻発させた。物流を停滞させ、労働者人民の生活を混乱させ、反アジェンデに誘導した。

 第4に、キューバでは革命党自身が武装し、バチスタ軍を撃退しながら、主要都市に向かった。都市に26Mの部隊が登場すると、その瞬間に労働者人民が街頭に進出し、商店を襲撃し、警察の手先を打倒し、反革命の息の根を止めた。

 しかしチリでは、労働者人民の武装はなきに等しかった。軍が労働者の拠点を捜索しても、銃一丁も発見されなかった。軍は「人民権力(産業コルドン)は軍にたいし無力であり、マルクス主義者がクーデターに対処する準備が出来ていない」と、判断していた。そして、9・11クーデターを迎えたのである。

 第5に、映画は「人民権力(産業コルドン)」をソビエト(コンミューン)の萌芽として評価しているが、それは武装しなかったが故に、反革命軍の前にはあまりにも無力であった。すなわち、人民が武装し、権力を奪取し、ブルジョアジーを追放し、職場を支配し、旧軍を徹底的に解体することによって、「人民の権力」は真に機能するのである。人民の武装、権力奪取、軍の解体なき構造改革論の幻想にすがることは出来ない。

現在、チリでは
 ピノチェトによる軍政と新自由主義が続き、人民の自由と生活が奪われた。それから17年後の1990年、保守だが反ピノチェト派のパトリシオ・エイルウィンが勝利し、文民政権に移管した。2000年にはチリ社会党のリカルド・ラゴスが大統領に就任し、2006年にはチリ社会党からミシェル・バチェレが就任した。

 2010年、大統領選の決選投票がおこなわれ、右派連合「チリのための同盟」のセバスティアン・ピニェラが当選した。2013年の大統領選挙で再び左派チリ社会党のミシェル・バチェレが勝利し、2014年第2次バチェレ政権が誕生した。

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