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小松基地問題研究会

20250719企画展「犀星と戦争」(7/12~11/9)について

2025年07月20日 | 読書
20250719企画展「犀星と戦争」(7/12~11/9)について

 室生犀星記念館で、「犀星と戦争―逃れられぬ時代に、どう在るか」が開催されており(11/9まで)、展示資料を見に行ってきた。5年前に、『室生犀星の戦争詩について』を発行し(石川県立図書館に蔵書)、犀星に関心ある人々からは、それなりに注目されたが、その後5年間で「犀星と戦争」についての論考に、どのような進捗があったのかを確認したかったからである。

 

 まず第1に、日本学術会議の会員任命権問題(注)が取り沙汰され、学問・表現の自由が危機に直面しているただ中で、犀星記念館として犀星の戦争詩を真っ正面から見据えたことに賛意と敬意をはらいたい。犀星記念館は金沢市の金沢文化振興財団が運営(2024年度予算は4146万円)しており、記念館の対象人物(犀星)の負の部分を晒すことの精神的負荷は、私などが軽々しく犀星批判をするのとは格段の差があるだろう。

【注:学術会議は戦前に科学者が戦争遂行の国策に利用されたことへの反省から1949年に生まれ、いかなる軍事研究にも一貫して反対の姿勢を取り続けてきた。1950年と1967年には軍事研究に関して「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」という旨の声明を発表した。】

 企画展の「ガイドペーパー」によると、1914年(25歳)から1918年(29歳)にかけて、「(犀星が)戦争の狂気を詩にしています」と書かれているが、具体的な作品を示しておらず、ちょっと残念である。
 1914年には第1次世界大戦が始まり、日本も参戦し、1918年には米騒動が起き、1919年には3・1独立運動が朝鮮全土を席巻し、1923年には関東大震災で朝鮮人や革命家が虐殺された時期である。島田清次郎もニーチェ、ドフトエフスキー、トルストイなどを読み、プロレタリア文学に親しんでいたときである。1929年には『蟹工船』(小林多喜二)、『太陽のない街』(徳永直)が出版され、1933年には多喜二は逮捕され、獄中死を強いられている。島清も左翼的言辞(『地上』など)で警察にマークされ、関東大震災後(1924年)に精神病院に強制入院させられ、断筆を強いられ死(1930年)を迎えている。30歳前後の犀星はこれらの報道を見ながら何を感じていたのだろうか。

 犀星はプロレタリア文学に親和感を持っていながら、1935年には「文学は正義につくか汚辱につくか」(『慈眼山随筆』)と問いつつも、プロレタリア文学に別離を告げ、「大臣も我々の友人」「碌でもない潔癖を取り捨て」(1937年「文学四方山話」)と、転向の道を歩み始めたのである。「ガイドペーパー」によれば、「国の役に立つ文学を探る」ために、満州旅行(1937年)をおこなったが(「文学は文学の戦場に」1938年)、当時の「国」とは「戦争する国」であり、「国のため」とは「戦争のため」であり、「戦争とは一定の距離をとることで、文学的良心を保とうとした」(「ガイドペーパー」)と評価しているが、果たしてその「文学的良心」とは何なんだろうか。

 そして4年後にはパールハーバーとシンガポール奇襲があり、日米戦争に突入する。「ガイドペーパー」では、「(犀星は)日本精神を叫ぶ政府に呼応するかのように、…開戦によって、個人の狭隘な世界から国家、大東亜へと視界が広がり」と肯定的に評価しているが、プロレタリア文学が持つ「世界性・国際性」に目をつむり、「日本精神」へと、視野を狭めていったのではなかろうか。

 そしてついに犀星は、「シンガポール陥落す」など70篇もの「愛国・戦争・銃後詩」で国民を鼓舞激励し、兵士を前線へと送る役割を果たしたのである。犀星は、戦後にまとめた、『室生犀星全詩集』(1962年)の解説で、「この戦争中は詩も制圧のもとに作られ、今日、これらの詩を削除することは心のにごりを見たくないからである」と、その真情を吐露しているが、高村光太郎のように、戦争詩の全てを収録し、その評価(批判)を読者に任せるべきだったのではないか。

 そして、今、私たちが犀星の戦争詩を読むことによって、人間・犀星の苦悩から学び、反面教師となし、着々と進められている戦争準備と対決していくべきであろう。
 2020年に発行した『室生犀星の戦争詩について』の結論として、次のように締めくくった。


(8)戦後、戦争詩を削除
 中野重治は「戦争の夢魔と文学・生活とのたたかいの犀星における全像は手軽には描けない。しかしこの時期に、短い夢魔期を通過することによって犀星が一歩ないし数歩進んだこと、その可能性を胎んできたことは争えない」(一九六八年「戦争の五年間」)と語り、犀星(戦争詩)批判は緩く、受容している(中野重治の項で記述)。
 また、前述の富岡は「(マニラ攻略戦を)虐げられる人々、虐げられる階級の同情から発している」とか、「国家の、帝国主義的プログラムに賛同して、意欲的な宣教を買って出た結果ではない」と犀星を擁護している。
 しかし、文学者であろうが誰であろうが、政治に係わった人には、濃淡はあれ、政治的責任が発生するのは当然である。前線の将校は多くて数千の兵士の命を左右するに過ぎないが、戦争詩人は一億の日本人民(台湾や朝鮮の人民も)に出征の号令をかけ、その政治的影響と責任の大きさは将兵に比肩出来ないという事実を押さえておくべきであろう。
 ところで、犀星が戦時に、戦争詩人として活動したことは、単に犀星個人の問題ではなく、犀星が生きた時代(戦争)の問題である。敗戦後の犀星が「強いられた」と言うならば、「強いた者」がおり、それが誰なのかを明らかにし、戦中の戦争詩が果たした役割を主体的に認識・反省すべきであろうが、驚くべきことに犀星自身が戦後に編集した『室生犀星全詩集』(一九六二年)から戦争詩を排除してしまったのである。
 『室生犀星全詩集』の解説で、犀星自身が「本書に収録の戦争雰囲気のある詩はこれを悉く除外した。後年の史実に拠るためという再考もあったが、詩全集の清潔を慮ったのである。この戦争中は詩も制圧のもとに作られ、今日、これらの詩を削除することは心のにごりを見たくないからである」と述べ、『全詩集』から「勝たせたまへ」、「臣らの歌」、「十二月八日」、「マニラ陥落」、「日本の朝」、「怒濤」、「ふたたびその日」、「遠天」、「シンガポール陥落す」、「日本の歌」、「今年の春」、「夜半の文」、「女性大歌」の戦争詩をことごとく削除した。
 犀星は、「心の濁りを見たくない」からだというが、みずからが戦争政策に順応し、戦争を賛美し、若者たちを戦場に追いやった自身の姿を「(圧政による)心の濁り」というなら、その「心の濁り」を強制した者(政府)にたいしてものを言い、後世にその「負の証拠」を遺すべきであろう。
 犀星は読者の理性を信頼せず、戦争詩を全消去してしまったが、他方では、日本文学報国会詩部会長を務め、翼賛詩(「わが詩をよみて人死に就きにけり」など)を多数発表した高村光太郎の全集(没後発行)では、戦争詩をすべて収録し、その評価(批判)を読者の判断に任せている。
 また、『石川近代文学全集十六 近代詩』(石川近代文学館、一九九一年)では、編集者は犀星の戦争詩『美以久佐』から一篇の詩も取り上げず、同様のことが、『世界新秩序の原理』(一九四三年)は西田幾多郎全集(戦後)から削除され、『皇道・神道・仏道・臣道』(一九三六年)は暁烏敏全集(戦後)から排除されている。
 しかし、隠されていた真実の姿が明らかになったとき、むしろ、「隠したい」という心情の醜さが際立ってくるものだ。

犀星の記事(2025年8月14日『北陸中日新聞』)の記事を転載します。


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