goo blog サービス終了のお知らせ 

アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

キューバ読書(4)『キューバ革命 1953~1959年』(河合恒生)など

2017年01月23日 | 読書
キューバ読書(4)『キューバ革命 1953~1959年』(河合恒生)など

 キューバ革命と言えば、カストロとゲバラのゲリラ戦争に注目が集まるが、実は1959年キューバ革命はゲリラ戦争に加えて労働者農民の決起(ゼネストと街頭制圧)が一体となって進行し、成功を収めたのである。
 そこで、1959年キューバ革命に至るまでの労働者決起に焦点をあててみたいと考えている。勉強不足で不十分な展開になると思うが、容赦願いたい。

(1)労働総同盟(CTC)
 キューバ労働総同盟(CTC)が結成されたのは1939年である。1945年第2次グラウ政権(真正党=米国と資本の代弁者)が誕生すると、人民社会党(PSP=旧共産党)は新政権を支持し、労働戦線統一のため労働総同盟(CTC)に加入するようよびかけた。労働総同盟の書記局員選挙では、真正党からムハールら3人が当選し、真正党が総同盟の主導権をにぎった。

 1946年7月グラウ政権のプリオ内相は労働総同盟の第5回大会に対抗して「労働組合評議会」を結成し、ムハールが議長になった。ついで「内紛」を口実に官憲が総同盟本部を占拠、裁判所により明け渡しを迫られると急遽でっちあげた「総同盟正統派」が管理権を掌握した。10月プリオは「総同盟は違法であり、その権利は停止され、全権が正統派に委ねられる」と発表した。これに抗議する労働者には容赦ない攻撃が加えられ、全国で1000人以上の総同盟活動家が逮捕された。

 1948年10月真正党・プリオ新政権は労組幹部をつぎつぎとパージし、抵抗を続ける活動家は暗殺、脅迫、リンチなどで活動不能になった。PSPは半ば非合法となり機関紙「オイ」工場は襲撃され閉鎖。真正党に乗っ取られた総同盟(CTC)は政府の御用組合化し、ムハールを頂点とする労働貴族の支配が確立した。

 1948年の砂糖生産はGNPの3分の1、輸出の85%を占めたが,その輸出先は恐慌前には8割を占めた米国が5割強に減少し、ヨーロッパや日本への輸出が増加した。生産の大規模化にともない、砂糖農業労働者は60万人を越えた。1948年1月には、製糖労働者の指導者ヘスス・メネンデスが暗殺されている。

(2)バチスタクーデター後
 1952年3月10日バチスタによるクーデターがおこり、これにたいして共和党、自由党、民主党は支持を表明した。真正党と正統党(オルトドソク党)はそれぞれ分裂し、人民社会党(PSP)は不支持を表明した。

 カストロは新聞「告発者」グループを形成し、下層インテリゲンチアないし労働者層の活動家を結集した。正統党(オルトドソク党)の急進派も結集した。

 1953年7月26日カストロらはモンカダ襲撃に決起したが失敗した(7・26運動)。この時点で、7・26運動には労働者農民の組織化と大衆運動の指導は希薄だったようだ。(注:モンカダとはサンティアーゴ・デ・クーバにある兵舎)

 1955年2月には、ラスビリャス州で起きた砂糖労働者のストは労働総同盟の統制を乗り越え50万人が参加する無期限ストに発展した。11月には砂糖労働者がふたたび立ち上がった。人民社会党(PSP)により組織され、ストは最初から反独裁のスローガンをかかげ政治闘争に発展した。ラスビリャス州では武装デモ隊が国道を封鎖し、地方警察と軍事衝突した。

 11月末には、冬眠状態にあった学生運動もあらたな盛り上がりを見せ、エチェベリアらは右翼化したMSRと訣別し、ハバナ大学で大学学生同盟(FEU)を再建した。FEUが提起した抗議デモが波状的におこなわれ、そのたびに動員数を増加させた。内務省はデモ・集会を禁止するが、学生はこれを無視して街頭行動を繰り広げ、FEUは製糖労働者との連帯をスローガンに掲げた。

(3)グランマ号上陸後
 1956年12月2日グランマ号がキューバ・オリエンテ州ラス・コロラダスに上陸したが、カストロらはシエラマエストラに逃げ込み、ゲリラ戦に転じた(注:シエラ=山脈)。1957年1月サンチアゴでは殺された少年の母を先頭に800人の女性による抗議デモがたたかわれた。7月30日パイスが暗殺され、サンチアゴ市民のあいだに想像を絶する怒りを呼びさまし、葬儀デモにはサンチアゴ市民が文字どおり根こそぎ参加した。この日をふくめ3日間にわたり全市が事実上のゼネスト状態になった(16万人中6万人決起)。

 1957年7月12日シェラマエストラ宣言が出され、7月20日にはカラカス(ベネズェラ)で反バチスタ各派の会議が開催された。7・26運動のほか真正行動(プリオ派)、真正党反乱派(バローナ派)、大学学生同盟(FEU)、市民抵抗、労働統一、モンテクリスティ・グループ、独立民主党など、PSP(人民社会党)を除く反バチスタの8党派が結集した。

 東部第2戦線のシエラクリスタルは社会主義の一種の実験場となった。ラウルは支配区内で町ごとの農民委員会を作った。委員会には多くの社会主義者が参加し、学校や病院の建設、道路や電話線の敷設など地域変革に取り組み、この農民委員会を基礎に「武装農民会議」が創設された。シエラクリスタルでは50万人が住む12000平方キロの地域にゲリラの実効支配が確立し、農民に依拠する姿勢が貫かれた。

 反乱軍にとっての敵はバチスタ個人ではなく、それを支えた軍隊、警察、準軍事組織など暴力装置そのものであり、バチスタの持つ権力機構のトータルな破壊こそが最終目標であった。平和的なあるいは妥協的な路線が入り込む余地はなかった。

 オリエンテ州のPSP(人民社会党)党員や活動家は7・26運動につぎつぎと合流した。PSP第2の拠点ラスビリャス州北東部のバンブラナオ山地では、ナルシサの製糖労働者が「マキシモ・ゴメス部隊」を組織した。(注:マキシモ・ゴメス将軍とは第2次キューバ独立戦争の闘士)

 1957年10月カストロとウルシニオ・ロハス(砂糖労働組合指導者・PSP)が会談し、共闘関係を確認した。

(4)4・9ゼネストへ
 1958年2月末、「ラジオ・レベルデ(反逆者)」が開始され、「人民への7・26運動のマニフェスト」が出され、ゼネストが宣言された。「労働者は全国労働者戦線(FON)に、一般市民は市民抵抗運動(MRC)に、学生は全国学生戦線に結集し、暴政にたいする全面戦争に立ち上がれ」と呼びかけ、熱烈に歓迎された。

 人民社会党(PSP)はスト参加を宣言し、真正党やDR(FEUの秘密軍事組織)もゼネスト支持を表明し、多くの組合が総同盟中央の絞めつけを拒否し、ストへの参加を決定した。全国指導部(ジャノ=平原派)幹部はゼネストを「武装蜂起→市街戦→拠点占拠」と位置づけていた。

 3月15日、46組織20万人を組織する「市民抵抗運動(MRC)」はバチスタ退陣要求を出し、翌16日サンチアゴで16歳の学生が虐殺され、市民は抗議デモに立った。3月末全国指導部の会議で、ゼネスト決行日を議論し、全国労働者戦線の状況、ムハールを支持する労働総同盟の職場の困難性が報告された。人民社会党(PSP)はカストロに会い、全国労働者戦線の現況からゼネストは無理だと評価し、労働者のストライキなしに武装蜂起するのは冒険主義だと批判した。

 カストロはPSPとゲバラの提案を受け入れて、「第2マニフェスト」で、全国労働者戦線(FON)のセクト主義批判を声明し、4月9日ゼネストに突入した。しかし武器は不足し、人民社会党(PSP)と学生革命幹部会(DRE)との協力関係が不十分で、全国労働者戦線(FON)の反共・セクト主義によって労働者の決起が消極的になっており、蜂起は失敗した。

 エンリケ・オルトゥスキは失敗の要因を「①人民の支持を正確に計る能力の欠如、②組織の貧弱さ、③武器の不足、④首都ハバナに力を集中しないという決定、⑤労働者階級(政治的無関心層)を動員する力の弱さ」と総括し、東部と地方で大規模に軍事活動を展開してこそ、労働者のゼネストを実施することが出来ると方針化した。

(5)再起に向かって
 5月3日、7・26運動はモンピエ会議(11人)を開催し、「ゲリラをシエラ(山脈)とジャノ(平原)で展開する。全国・全面戦争を展開するゲリラ部隊へ」と集約し、戦いが再開された。

 7・26運動は全国労働者戦線(FON)の執行部を指導し、新しい同盟戦略で、アウティンティ党、オルトドクソ党、DRE、教会、PSP、その他の支配下にある労働者、さらに大学学生同盟(FEU)にも呼びかけて会合を開き、4・9ゼネストの失敗を7・26運動のミリシア(民兵)中心の軍事重視にあったと反省し、大衆闘争と統一された労組の建設を提起した。CTCの一部を除いた、PSPも含めて、統一全国労働者戦線(FONU)が調印され、11月まで活動していたが、正式に結成されなかった。

 7月20日にはカラカス宣言が出された(7・26運動、OA、革命幹部会、労働者の統一組織、アウティンティ党、民主党、FEU、市民抵抗運動が署名)。宣言は「①共同の戦略は武装闘争でバチスタ打倒すること。それは市民戦線の大規模ゼネストで終わらせる、②バチスタ追放後、臨時政府を樹立、③犯罪者の処罰、労働者の権利保障、国際協定の遵守、公共秩序、平和、自由、経済的社会的政治的革新」を内容としていた。

 バチスタ軍の大攻勢を撃退したあと、間髪を入れず、「①サンチアゴ制圧、②ラス・ビアス制圧、③ビナル・デル・リオ制圧」の攻勢に出た。ラス・ビアスでキューバをふたつに分断する戦略が成功し、バチスタ体制が急速に崩壊していった。反バチスタ運動が草の根にまで浸透していた。

(6)首都ハバナ制圧
 1958年5月25日から8月にかけて、マエストラ山脈の戦いに勝利し、8月22日カミロ・シエンフゴスの部隊は北回りで首都ハバナに向かった(1/2ハバナ入城)。8月31日ゲバラの部隊も出発し、12月31日にサンタクララを陥落させた(1/3ハバナ入城)。カストロとラウルの部隊は1月1日サンチアゴを占領し、ハバナに向かった。

 12月28日午前5時ゲバラはサンタクララ(政府軍3000人)にたいする攻撃を開始した。ラスビリャス大学では大学学生同盟(FEU)が蜂起し大学を占拠。ゲバラは大学を司令部として包囲戦に入った。300人のコマンド部隊が市内に突入し、市民の支持を得ながら中心部の制圧に成功した。

 12月31日バチスタは辞任を表明し、午前0時を期して飛行機で出国すると発表した。1959年1月1日午前2時カンティーヨは「暫定政府」樹立を宣言し、ピエドラ最高裁長官を臨時大統領に指名し、スミス米国大使はただちに「暫定政府」を支持した。

 バチスタの亡命とカンティリョの臨時政府樹立を知ったカストロは「ラジオ・レベルデ」で「夕方6時までに軍は降伏せよ。6時以降の外出を全面禁止する」と指令した。ついで全キューバ人民にたいして軍部支配地域での戦闘の継続とゼネストを呼びかける「全将兵と国民への指示」を発表した。

 午前11時、7・26運動活動家が街へ飛び出し、革命支持のデモを始めると、一気に市民の抑えられていた感情が爆発し、商店の掠奪・焼打ちや官憲の手先への襲撃がはじまった。統一全国労働者戦線(FONU)の支援のもと革命的ゼネストが全国に波及した。発電所以外の鉄道、航空、港湾などの労働者はただちにゼネスト体制に入った。

 午後3時、ワシントンのキューバ大使館に7・26運動代表が入り、大使館の革命政府への引き渡しを要求。ニューヨーク総領事館、マイアミ領事館、メキシコ大使館でも革命政府代表が建物を接収した。(1/7米国が新キューバ政権承認)

 1月2日カミロ・シエンフゴスの部隊が首都ハバナに入城し、1月3日ゲバラの部隊がハバナに入城した。1月9日カストロは4万人のハバナ人民を前にして「7・26運動だけがたたかったのではない。ゼネストは革命の完全な勝利の決定的な要因だった」と演説した。

(7)ゲリラ戦+人民蜂起
 以上、1959年1月首都ハバナ制圧までを、7・26運動と労働運動の動向を軸にして、概観してきたが、7・26運動はいくつもの失敗と敗北から学びながら、たたかいを深化させ、遂に労働者人民とともにキューバ革命を成し遂げたのである。

 当初の7・26運動はほとんど労働運動を守備範囲に入れていなかった。1953年7・26モンカダ襲撃、1956年12・2グランマ号上陸はその典型である。しかし1958年4・9ゼネストを提起し、労働運動への働きかけを強化し、人民社会党(PSP)、真正党、DR(FEUの秘密軍事組織)がゼネスト支持を表明し、多くの組合が総同盟中央の絞めつけを拒否してストへの参加を決定していた。

 しかし、7・26運動の軍事的展開の不十分さ、ゼネスト呼びかけから準備までの時間が短かったことによって、労働者人民のゼネスト決起とかみ合わず、敗北を喫してしまった。

 その総括は「①人民の支持を正確に計る能力の欠如、②組織の貧弱さ、③武器の不足、④首都ハバナに力を集中しないという決定、⑤労働者階級(政治的無関心層)を動員する力の弱さ」とし、弱点の克服をめざした。7・26運動はシエラ(山脈)とジャノ(平原)でゲリラ戦を展開(全国・全面戦争)し、労働者人民の蜂起(街頭制圧)と結合して、バチスタ政権と軍を実力で倒し、権力を掌握していく方向を打ち出した。

 4・9ゼネスト/蜂起の失敗から、7・26運動は労働者の組織化、他党派との協力関係のためにエネルギーを割き、統一全国労働者戦線(FONU)結成やカラカス宣言を実現し、首都ハバナの蜂起に向かった。

 1958年7月初旬「ラジオ・レベルデ」で、カストロは「革命においてストライキは民衆の最もすばらし武器だ。…武装闘争はストライキよりも下に見なすべきだ。…間違いはもう繰り返さない」と話し、FONU結成時にカストロは4・9ゼネストの失敗を7・26運動のミリシア(民兵)中心の軍事重視にあったと反省し、大衆闘争と統一された労組の建設を提起している。

 7・26運動はこの総括に立って、5月25日からの戦闘を開始し、1959年1月には人民とともに勝利を手にしたのである。1月9日、4万人のハバナ市民の前で、「7・26運動だけがたたかったのではない。ゼネストは革命の完全な勝利の決定的な要因だった」と話したように、キューバ革命の性格をバチスタ軍と戦闘を交えながら首都ハバナを陥落させた7・26運動とハバナなど主要都市で起ち上がった労働者民衆の蜂起・ゼネストによる人民革命であることを明確にした。


【参考文献】
『キューバ革命 1953~1959年』(河合恒生著2016年7月)
HP『ラテンアメリカの政治』鈴木頌 
HP『世界史日本史研究室 北の陣』(キューバ独立への道)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20170119 映画『チリの闘い』... | トップ | メキシコ国境に3000キロの壁 »
最新の画像もっと見る

読書」カテゴリの最新記事