アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20220211 李錦珠さんを偲ぶ

2022年02月11日 | 思い出の人
20220211 李錦珠さんを偲ぶ

 2021年12月12日、韓国・太平洋戦争犠牲者光州遺族会の李錦珠(イ・クムジュ)さんが亡くなった。101歳だという。
 不二越強制連行訴訟の準備のために訪韓すると、そこには李金珠さんがいた。2005年5月27日にサムスン本社に乗り込んだときも一緒だった。金景錫(キム・ギョンソク)さんがサムスンの重役と対峙し、その傍らに李金珠さんがいた。

 
(上写真:サムスン本社、下写真:不二越ソウル支社前)

2005年サムスン本社
 2004年にも不二越原告団はサムスンにたいして「不二越との取り引きをやめろ」と働きかけていたが、2005年4月11日に、富山空港玄関先でサムスンの社員が不二越の車に乗り込んだことを、偶然視認した。
 5月27日には、金景錫さんは不二越原告団を総動員し、太平洋戦争被害者補償推進協議会のメンバー、光州遺族会代表の李錦珠さんも合流し、重役を引っ張り出し、原告は激しく詰め寄り、「民族正気」の立場から早期に問題を解決するよう求めた。
 話し合いの結果、(1)サムスン電子は「4月11には、サムスンの社員が不二越を訪問した」としぶしぶ認め、(2)不二越との取り引きは終了しており、「夏までには完全に終わる」の一点張りだったが、(3)サムスン電子に「再度不二越を訪問して、解決を働きかける」ことを約束させ、その後不二越ソウル支社に移動し、謝罪と補償を求めた。
 2008年7月、木浦(モッポ)に住む原告Sさんの健康が優れず、来日(裁判での証言)できないかもしれないという連絡が入り、急遽単身訪韓して、太平洋戦争被害者補償推進協議会のMさんとともに、Sさんの自宅を訪問した。李錦珠さんは朝鮮半島南部に多い不二越原告を支えており、木浦近くの光州まで足を伸ばして、李金珠さんの助けをお借りした。

2008年全泰壱橋へ
 2003年以降不二越訴訟準備のために何十回も訪韓していたが、個人的な旅はなかなかできなかった。2008年6月、はじめて連れ合いとふたりで私的な旅したときに、どうしても会いたかった人(東大門市場の裏、清渓川にかかる橋の全泰壱さんの胸像)と、はじめて対面した。そこでは、若者たちが全泰壱さんとともに労働者の権利を歌っていた(6月24日)。
 私たちふたりにとって、全泰壱さんこそ韓国・朝鮮を見るときの共通の先生であった。60年代後半から70年代前半にかけて、日本の青年・学生は必死でたたかっていたが、同時期の韓国では、朴正煕政権下でより困難に直面していたことを知ったのは、1978年に発行された『炎よ、わたしをつつめ―ある韓国青年労働者の生と死』(金英琪著)だった。それは45年後のいまも、私たちの書棚に収まっている。

  
(上写真:全泰壱さんの胸像、下左写真:国立5.18民主墓地、下右写真:バッジ)

光州へ
 翌25日、龍山駅で光州(クァンジュ)までの切符を買い、KTX(韓国高速鉄道)で光州に向かった。光州駅前で李錦珠さんと落ち合ったが、すでに90歳ちかくの高齢で、体調も優れないようで、2人の大学生を紹介してもらい、彼らの案内で、光州市郊外にある「国立5.18民主墓地」に向かった。帰りに、受付で、記念バッジをいただき、日本語を話す一団に目をやると、なんと、広島の土井さんがいた。
 1970年に亡くなった全泰壱さんと会い、1980年の光州蜂起で亡くなった民主烈士と会い、帰途についた。このとき、李錦珠さんから高麗人参を一袋プレゼントされ、その夏は土瓶で煎じて飲み、暑い夏を乗り切った記憶が残っている。

まだ終わっていない
 その後、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)を見、今年(2022年)1月29日には、「その時、市民は軍と闘った〜韓国の夜明け 光州事件〜」(NHK)を見て、しみじみと思うことは「民主主義の木は血を吸って育つ」(トーマス・ジェファーソン)と肝に銘じて、生きてきたにもかかわらず、未だに私の血はたたかいに捧げられてはいないことだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20220209 佐渡鉱山のユネス... | トップ | 20220214 石川県知事選―こん... »
最新の画像もっと見る

思い出の人」カテゴリの最新記事