ここのブログは正直読んでいる人が心底どうでも良い話ばかりなのであるが、今回もホント他人にはどうでも良い話題。ぬたりが個人的に興味のある廃線跡について。
場所は現在の群馬県沼田市。路線名は利根軌道。路線自体は渋川から沼田を結ぶ全長約21キロほどの路線で、大正14年に廃止されている。もう廃止自体が100年も前の話だ。
で、実はぬたりが興味があるのはこの路線の支線。Wikipediaにも岩室発電所の建設のためにもうけられた、とあり沿線跡と思われる道路が今でも「電車道」と呼ばれていたりもする。
で、気になることはと言えば、そもそも岩室発電所までは遠くねえか? という素朴な疑問である。本線との分岐地点からだと約14キロもある。本線の3分の2にも当たるような長い支線なんかもうけるもんかな?
で、今回、図書館にて一応の回答となる著述を発見。これ見つけた時には内心小躍りする感じで嬉しかったので、今回ネタに。
そもそもこの日は沼田に行く予定はなく、渋川に買い物に行ったのだが品切れで、ふと沼田にも取扱店あったな、となんとなく思い出して足を運んだのが発端。んで、買いたい物はメーカー終売品だったんだけど、沼田の店には複数在庫があり、ホクホクでいたらついでに図書館寄って調べ物するかと、これもなんとなく思いついた。思いつきで行った所で思わぬ収穫があると嬉しさもひとしおって訳。
まあ、利根軌道自体が廃止から約100年。ましてその支線ともなると資料は乏しくなるのだが、廃道や廃線を調べるには鉄板の資料がある。市町村史である。各市町村が発行するこの本には、「交通」の項目が必ず存在するのね。そこが結構参考になる。
ただ、支線は発電所建設のための路線で、旅客扱いしてはいなかったらしく「沼田市史」や岩室発電所のあった「白沢村史(白沢村は平成の大合併で沼田市に編入)」には記載が無かった。岩室発電所建設のため、と言う事前情報から白沢村史は岩室発電所の項目も読んでみたが、支線の話は一切なし。期待してたんだけどな。
んで、記載を見つけたのは「利南(となみ)村史」。利南村は今の沼田市南部にあった村で、昭和29年に周囲の町村と合併(いわゆる昭和の大合併)して沼田市となっている。本線と支線が分岐する場所は当時は利南村にあたり、村内を横断する形になるのでなんか載ってないかしらと期待もせずに手に取ったらまさにビンゴだった。こういうの嬉しいよね。
まあこの本が編纂されたのは合併を控えた頃の話で、利根軌道廃止から30年近く経っての話。だから期待もしていなかったのだが「電車道」というそのものズバリの項目が設けられていた。
残念ながら地図ではなく説明は文章。○○から●●神社前を通り△△坂に出て▲▲に至る、と言う説明では大まかな事しか分からず、まあ概ね想像していたとおりのルートだったっぽいな、と確認しただけではあったんだが、目から鱗だったのが建設目的。岩室発電所ではなく上久屋発電所の建設資材運搬用、と書いてあった。
これが上記のぬたりの「岩室まで遠くね?」という疑問と恐ろしい程にマッチする。岩室までだと14キロだが上久屋までなら約6キロ。距離は半分以下になる。利南村史の説明も上久屋発電所のあたりまでのルートの説明で終わっており、普通に読めばこのあたりまでの路線だった、と考えられる。実際地図を見てみても、上久屋発電所までなら路盤跡っぽい道路をある程度追うことすら出来る。
さて、ここに至ってWikipediaの「岩室発電所建設のため」という記載が間違っているのか、と言う話になるのだが、個人的には「上久屋まで延びた線路を上久屋と岩室両方の建設のために使った」と言うことなんじゃないかと思っている。記録上、岩室発電所は大正4年運用開始、上久屋発電所は大正14年運用開始、という形になっており、10年のブランク。だが、上久屋発電所を建設する際に岩室発電所の増強を図ったとしても不思議ではなく、この際の岩室発電所増強工事のエピソード(電車で運べない物は馬車を使った等々)が、岩室発電所建設のため敷設された、という誤解を生んだ可能性がある。
さらには支線の廃線跡は「電車道」と呼ばれているが、利根軌道が馬車軌道から電化されたのは大正6年のこと。大正4年運用開始の岩室発電所建設のために支線が用いられたとするなら、ここが「電車」道と呼ばれるのはおかしいことになる。まあ地区の人の通称だから別に正確性が求められるものではないから馬車軌道の道を電車道と言ってもいいけど流石に無理はあると思うな。大正14年運用開始の上久屋発電所建設にあわせての支線なら、まさに電車道で間違いないことになる。
まあ市町村史がすべて正しいかというとそんなこともないわけだし、利南村史でも「支線は上久屋発電所まで」と明確にはしていないので、岩室発電所まで軌道があった可能性はいまだに除外はできない。もしも路線が続いていたとすると上久屋町の先で旧白沢村に入ってしまうので、利南村史としてもよその村の廃線跡を記述する義理はない。そして白沢村史には支線の記述は一切ないので明確に否定も出来ない。なのであくまでも「現時点での考え」以上にはならないが、少なくとも上久屋までのルートはほぼ確定できたので、今度のんびり廃線跡巡りをしてみようかとは考えています。とはいえ、遺構は全くと言っていい程無いので、ブログのネタにはならないだろうけどもね。
場所は現在の群馬県沼田市。路線名は利根軌道。路線自体は渋川から沼田を結ぶ全長約21キロほどの路線で、大正14年に廃止されている。もう廃止自体が100年も前の話だ。
で、実はぬたりが興味があるのはこの路線の支線。Wikipediaにも岩室発電所の建設のためにもうけられた、とあり沿線跡と思われる道路が今でも「電車道」と呼ばれていたりもする。
で、気になることはと言えば、そもそも岩室発電所までは遠くねえか? という素朴な疑問である。本線との分岐地点からだと約14キロもある。本線の3分の2にも当たるような長い支線なんかもうけるもんかな?
で、今回、図書館にて一応の回答となる著述を発見。これ見つけた時には内心小躍りする感じで嬉しかったので、今回ネタに。
そもそもこの日は沼田に行く予定はなく、渋川に買い物に行ったのだが品切れで、ふと沼田にも取扱店あったな、となんとなく思い出して足を運んだのが発端。んで、買いたい物はメーカー終売品だったんだけど、沼田の店には複数在庫があり、ホクホクでいたらついでに図書館寄って調べ物するかと、これもなんとなく思いついた。思いつきで行った所で思わぬ収穫があると嬉しさもひとしおって訳。
まあ、利根軌道自体が廃止から約100年。ましてその支線ともなると資料は乏しくなるのだが、廃道や廃線を調べるには鉄板の資料がある。市町村史である。各市町村が発行するこの本には、「交通」の項目が必ず存在するのね。そこが結構参考になる。
ただ、支線は発電所建設のための路線で、旅客扱いしてはいなかったらしく「沼田市史」や岩室発電所のあった「白沢村史(白沢村は平成の大合併で沼田市に編入)」には記載が無かった。岩室発電所建設のため、と言う事前情報から白沢村史は岩室発電所の項目も読んでみたが、支線の話は一切なし。期待してたんだけどな。
んで、記載を見つけたのは「利南(となみ)村史」。利南村は今の沼田市南部にあった村で、昭和29年に周囲の町村と合併(いわゆる昭和の大合併)して沼田市となっている。本線と支線が分岐する場所は当時は利南村にあたり、村内を横断する形になるのでなんか載ってないかしらと期待もせずに手に取ったらまさにビンゴだった。こういうの嬉しいよね。
まあこの本が編纂されたのは合併を控えた頃の話で、利根軌道廃止から30年近く経っての話。だから期待もしていなかったのだが「電車道」というそのものズバリの項目が設けられていた。
残念ながら地図ではなく説明は文章。○○から●●神社前を通り△△坂に出て▲▲に至る、と言う説明では大まかな事しか分からず、まあ概ね想像していたとおりのルートだったっぽいな、と確認しただけではあったんだが、目から鱗だったのが建設目的。岩室発電所ではなく上久屋発電所の建設資材運搬用、と書いてあった。
これが上記のぬたりの「岩室まで遠くね?」という疑問と恐ろしい程にマッチする。岩室までだと14キロだが上久屋までなら約6キロ。距離は半分以下になる。利南村史の説明も上久屋発電所のあたりまでのルートの説明で終わっており、普通に読めばこのあたりまでの路線だった、と考えられる。実際地図を見てみても、上久屋発電所までなら路盤跡っぽい道路をある程度追うことすら出来る。
さて、ここに至ってWikipediaの「岩室発電所建設のため」という記載が間違っているのか、と言う話になるのだが、個人的には「上久屋まで延びた線路を上久屋と岩室両方の建設のために使った」と言うことなんじゃないかと思っている。記録上、岩室発電所は大正4年運用開始、上久屋発電所は大正14年運用開始、という形になっており、10年のブランク。だが、上久屋発電所を建設する際に岩室発電所の増強を図ったとしても不思議ではなく、この際の岩室発電所増強工事のエピソード(電車で運べない物は馬車を使った等々)が、岩室発電所建設のため敷設された、という誤解を生んだ可能性がある。
さらには支線の廃線跡は「電車道」と呼ばれているが、利根軌道が馬車軌道から電化されたのは大正6年のこと。大正4年運用開始の岩室発電所建設のために支線が用いられたとするなら、ここが「電車」道と呼ばれるのはおかしいことになる。まあ地区の人の通称だから別に正確性が求められるものではないから馬車軌道の道を電車道と言ってもいいけど流石に無理はあると思うな。大正14年運用開始の上久屋発電所建設にあわせての支線なら、まさに電車道で間違いないことになる。
まあ市町村史がすべて正しいかというとそんなこともないわけだし、利南村史でも「支線は上久屋発電所まで」と明確にはしていないので、岩室発電所まで軌道があった可能性はいまだに除外はできない。もしも路線が続いていたとすると上久屋町の先で旧白沢村に入ってしまうので、利南村史としてもよその村の廃線跡を記述する義理はない。そして白沢村史には支線の記述は一切ないので明確に否定も出来ない。なのであくまでも「現時点での考え」以上にはならないが、少なくとも上久屋までのルートはほぼ確定できたので、今度のんびり廃線跡巡りをしてみようかとは考えています。とはいえ、遺構は全くと言っていい程無いので、ブログのネタにはならないだろうけどもね。