先日館林城の話題に触れたんだから、今日は沼田城について。
で、沼田城はかなり本格的な天守閣があったと伝えられていて、なんと5層6階の天守閣があったと言われる。県内の天守閣の中でもダントツの規模(他はせいぜい3層)を誇る。
正直な話をすれば、「沼田あたりになぜそんな大層な天守閣が?」というのが正直なところではある。慶長年間に真田信之が建て(階数不明)、後に信之の孫、信直が5層の天守閣を建てた、と記録に伝わる。ただ、信直の先代、信政の時の「正保城絵図」なる文書には、既に5層の天守閣が描かれている。このため、いつの時代に5層の天守閣が建ったのか今ひとつ判然としない。そして真田時代の城は一度完全に破却されているのでますます詳細が分からなくなっている。
真田家というのは時代劇では割と主人公サイドで語られることが多いのだが、ドラマで焦点が当たるのは大概大坂の陣まで。大河ドラマ「真田丸」もまさにそう。と言うかそこに至るまでの話だから題名が「真田丸」でもある訳なんだが。
で、この後、真田家はちょっとややこしくなる。真田家の本拠は上田から松代に移り、沼田は分領として扱われる。時の真田家当主、真田信之は長男の信吉を沼田に置いて統治を任せた。しかし信吉は父に先んじて1634年に死去。その後を信吉の長男、熊之助が相続するが4歳であったため、信吉の弟信政が補佐にあたった。さらには熊之助も幼くして亡くなり、沼田領は信政が統治することになる。
やがて信之は隠居し、信政が当主となり、沼田領は信吉の次男真田信直が統治することになったが、2年後に信政も信之に先んじて亡くなってしまう。そして松代藩当主の後継は信政の子、当時2歳の幸道が指名される。
こんな感じでただでさえ夭折続きでゴタゴタしている上に当主は幼少。しかも信之の次男の子となった。これに噛みついたのが信直である。そもそも自分こそが真田家長子の直系であり、わざわざ信之の次男の系統、しかも幼少の人間に継がせるのはおかしい、というわけだ。確かに言い分は一理はあり関係のある人間の後ろ盾も得て運動をしたのであるが、幕府の裁定は「後継者は幸道」と決定。ただ、分領という立場ではなく正式に沼田藩として独立が認められる形になった。
これですっきり、となればよかったんだろうが信直とすると正直面白くない。松代藩は石高10万石の信濃最大の藩でしかも真田の本家筋という扱いであるのに対し、沼田藩は3万石でしかも分家扱い。世が世なら自分が松代藩主だったのに、と言う思いが強くなりすぎたのか、信直は強引に沼田藩を「(松代藩より上の)14万石」と幕府に届け出るに至る。これにあわせて藩内には重税を課し藩は大混乱に至る。
こんな無茶が通るわけもなく、群馬県民には上毛かるたでおなじみ杉木茂左衛門の直訴事件や、幕府から命ぜられた賦役の不履行等で悪政が露呈。藩は取りつぶし、このときに城も破壊され、天守閣や高さ8間と言われた天守閣の石垣も完全に破壊されている。
このため、「松代藩に対抗するために信直が5層の天守に無理矢理改装した」と考えるのも自然だし、「信直時代の前の絵図に5層に書かれてるんだし、やはり権力者の覚えもめでたかった信之が建てたんだろう」と考えるのも自然。もし前者だとすると5層の天守閣は暴君の象徴になりかねない部分はあるので立派だからと言って喜んでばかりもいられないが。
で、2023年現在の活動実績をネットでは追えないのだが、再建を目指す市民団体が既にあって市内の商工業者が中心の結構しっかりした組織みたい。小田原征伐のきっかけに絡む(と言われる)城なので、歴史的にもそこそこの知名度はあるし、21世紀になって新たに5層の天守閣が建つとなれば、これは観光的なインパクトは十分。再建する意義は見いだしやすい。
しかも跡地が公園として整備済なのも見逃せないポイント。天守閣は石垣を含めて現存しないが、天守閣があったと言われる位置(発掘調査も行われました)は完全に公園の中。現時点で存在する道路や建築物にはほとんど干渉しない。位置を見るに沼田公園の英霊殿のあたりで、さすがに英霊殿は移動しなきゃだろうが、公園自体広いから移動場所を見つけるのは容易いだろう。いずれにしても今県庁舎が建ってる(前橋城)だの、都市化に飲まれて今や道路が通ってる(高崎城)だのに比べれば、整備のハードルはかなり低い。
で、もちろん最大のネックは「お金」なんだけどな。
なにしろ昨今の疲弊した地方財政の中、群馬県の中でも一番人口の少ない市である沼田市がその費用を負担できるかというと、これはかなりな思い切りが必要になる。市民団体の試算でも天守閣再建だけで25億円かかるらしいから、実際となればもっとかかるだろう。これは人口5万人弱の地方都市の負担としてはちょっときつそう。
とは言え官民巻き込んだ形で話が推進すればワンチャンあるかもしれないのは既に述べたとおり。近隣の大規模な天守閣となれば、木造天守に限れば松本城くらいなもの。そういう点でライバルはあまりいないとも言える。詳細な図面がないので厳密な再建とは行かないだろうが、文献をあたって出来うる限りの再建をすれば、そこそこお客が呼べる可能性はあるかもしれない。昭和の時代じゃないから鉄筋コンクリートで作るようなこともしないだろうし。
で、沼田城はかなり本格的な天守閣があったと伝えられていて、なんと5層6階の天守閣があったと言われる。県内の天守閣の中でもダントツの規模(他はせいぜい3層)を誇る。
正直な話をすれば、「沼田あたりになぜそんな大層な天守閣が?」というのが正直なところではある。慶長年間に真田信之が建て(階数不明)、後に信之の孫、信直が5層の天守閣を建てた、と記録に伝わる。ただ、信直の先代、信政の時の「正保城絵図」なる文書には、既に5層の天守閣が描かれている。このため、いつの時代に5層の天守閣が建ったのか今ひとつ判然としない。そして真田時代の城は一度完全に破却されているのでますます詳細が分からなくなっている。
真田家というのは時代劇では割と主人公サイドで語られることが多いのだが、ドラマで焦点が当たるのは大概大坂の陣まで。大河ドラマ「真田丸」もまさにそう。と言うかそこに至るまでの話だから題名が「真田丸」でもある訳なんだが。
で、この後、真田家はちょっとややこしくなる。真田家の本拠は上田から松代に移り、沼田は分領として扱われる。時の真田家当主、真田信之は長男の信吉を沼田に置いて統治を任せた。しかし信吉は父に先んじて1634年に死去。その後を信吉の長男、熊之助が相続するが4歳であったため、信吉の弟信政が補佐にあたった。さらには熊之助も幼くして亡くなり、沼田領は信政が統治することになる。
やがて信之は隠居し、信政が当主となり、沼田領は信吉の次男真田信直が統治することになったが、2年後に信政も信之に先んじて亡くなってしまう。そして松代藩当主の後継は信政の子、当時2歳の幸道が指名される。
こんな感じでただでさえ夭折続きでゴタゴタしている上に当主は幼少。しかも信之の次男の子となった。これに噛みついたのが信直である。そもそも自分こそが真田家長子の直系であり、わざわざ信之の次男の系統、しかも幼少の人間に継がせるのはおかしい、というわけだ。確かに言い分は一理はあり関係のある人間の後ろ盾も得て運動をしたのであるが、幕府の裁定は「後継者は幸道」と決定。ただ、分領という立場ではなく正式に沼田藩として独立が認められる形になった。
これですっきり、となればよかったんだろうが信直とすると正直面白くない。松代藩は石高10万石の信濃最大の藩でしかも真田の本家筋という扱いであるのに対し、沼田藩は3万石でしかも分家扱い。世が世なら自分が松代藩主だったのに、と言う思いが強くなりすぎたのか、信直は強引に沼田藩を「(松代藩より上の)14万石」と幕府に届け出るに至る。これにあわせて藩内には重税を課し藩は大混乱に至る。
こんな無茶が通るわけもなく、群馬県民には上毛かるたでおなじみ杉木茂左衛門の直訴事件や、幕府から命ぜられた賦役の不履行等で悪政が露呈。藩は取りつぶし、このときに城も破壊され、天守閣や高さ8間と言われた天守閣の石垣も完全に破壊されている。
このため、「松代藩に対抗するために信直が5層の天守に無理矢理改装した」と考えるのも自然だし、「信直時代の前の絵図に5層に書かれてるんだし、やはり権力者の覚えもめでたかった信之が建てたんだろう」と考えるのも自然。もし前者だとすると5層の天守閣は暴君の象徴になりかねない部分はあるので立派だからと言って喜んでばかりもいられないが。
で、2023年現在の活動実績をネットでは追えないのだが、再建を目指す市民団体が既にあって市内の商工業者が中心の結構しっかりした組織みたい。小田原征伐のきっかけに絡む(と言われる)城なので、歴史的にもそこそこの知名度はあるし、21世紀になって新たに5層の天守閣が建つとなれば、これは観光的なインパクトは十分。再建する意義は見いだしやすい。
しかも跡地が公園として整備済なのも見逃せないポイント。天守閣は石垣を含めて現存しないが、天守閣があったと言われる位置(発掘調査も行われました)は完全に公園の中。現時点で存在する道路や建築物にはほとんど干渉しない。位置を見るに沼田公園の英霊殿のあたりで、さすがに英霊殿は移動しなきゃだろうが、公園自体広いから移動場所を見つけるのは容易いだろう。いずれにしても今県庁舎が建ってる(前橋城)だの、都市化に飲まれて今や道路が通ってる(高崎城)だのに比べれば、整備のハードルはかなり低い。
で、もちろん最大のネックは「お金」なんだけどな。
なにしろ昨今の疲弊した地方財政の中、群馬県の中でも一番人口の少ない市である沼田市がその費用を負担できるかというと、これはかなりな思い切りが必要になる。市民団体の試算でも天守閣再建だけで25億円かかるらしいから、実際となればもっとかかるだろう。これは人口5万人弱の地方都市の負担としてはちょっときつそう。
とは言え官民巻き込んだ形で話が推進すればワンチャンあるかもしれないのは既に述べたとおり。近隣の大規模な天守閣となれば、木造天守に限れば松本城くらいなもの。そういう点でライバルはあまりいないとも言える。詳細な図面がないので厳密な再建とは行かないだろうが、文献をあたって出来うる限りの再建をすれば、そこそこお客が呼べる可能性はあるかもしれない。昭和の時代じゃないから鉄筋コンクリートで作るようなこともしないだろうし。