突然だが谷川岳である。
気が付けば暦は9月も下旬。冬も近づきつつある昨今であり、ぬたりにとっては城跡巡りのハイシーズンが近づきつつある。
まあ、正直県内には行ったことない大規模な城跡こそもうそんなにないのであるが、それでもこれからあちこちに出掛けて歩くことになるわけだ。
ところが元来怠け者のぬたりであり、暑い季節にはとにかく運動をしない。だからこの季節はすっかり体が鈍っているのね。自覚あるもん。
というわけでリハビリを敢行しようと思いたったわけ。それで白羽の矢を立てたのが谷川岳だったわけだ。
とは言え、遭難者の数に関して言えば世界でも有数たる山として知られる谷川岳である。リハビリには重すぎるだろう、とお思いになられる方もあるかもしれませんな。
でも種明かしをすれば単純明快。ぬたりは谷川岳に登ってなんかいない。そもそも冒頭の写真も谷川岳の山体を捉えているでしょ。
自分が谷川岳に登ったら谷川岳の写真なんか撮れないわな。
今回ぬたりが眼をつけたのは谷川岳の脇を走る国道291号線である。知ってる人には「清水越新道」とか「清水国道」と言えば分かってもらえるかもな。
国道291号は群馬県前橋市から新潟県柏崎市に至る国道なんだが、多くの地図では群馬県は谷川岳のあたりまでしか国道の記載がなく、山を越えて新潟県六日町市の清水集落のあたりまでは車道が通じていない、いわゆる点線国道となっている。
点線国道になるのにも様々な事情があるのだが、この291号の場合は「明治時代に1度、馬車通行が可能な国道として整備された」という歴史があり、現在の国道指定に繋がっている。車は車でも自動車ではなく馬車ながらも、車輪の付いた乗り物が通れる道として、しかも明治時代のかなり早い時期に整備された過去があるわけよ。
で、この明治期の道路開削がそもそも一大国家プロジェクトだった。1878年に大久保利通が提唱した土木7大プロジェクトの一つとして道路開削が進められている。当時重要な港として利用されていた新潟港と東京を直線的に結ぶルートとなるわけで、明治18年の完成と同時に国道8号線に指定された。峠道自体のスペックも幅3間(5.4メートル)というから当時とすれば立派なもの。
しかしながらこの道は、正直当時の技術力からすると無理がある代物だった。何しろ世界有数の豪雪地帯である上越国境を素直に越える道。しかもただでさえ急峻な峠付近の沢筋はどこもかしこも雪崩の巣。一説には9月に開通して、翌月の豪雨で道が決壊、補修できないうちに冬が来て、例年通りの豪雪で道がメタメタにされて、以降はもう二度と馬車での通行は出来なくなった、なんて話まであるほどである。特に新潟県側は登山道としてすら無視されている(登山道は別ルート)ほど。群馬県側はほとんどの場所は(一応)登山道として再利用されている。上越国境に車輪が付いた乗り物が往来できるようになるのは、鉄道なら上越線清水トンネル開通の昭和6年(清水国道開通の46年後)、車両であれば国道17号三国トンネル開通の昭和34年(同じく74年後)まで待たなければいけない。
国道は国が指定する道路である以上、どこを通っている、という規定がある。これは点線国道であっても同じで、たとえ通れなくても国道のルートが選定されている以上、公的な台帳に載っている(らしい)。んで、この291号の点線部分は、まんま明治時代の国道のルートが指定されている。要するに、廃道であっても国の図面上はそこに道が今でも存在するわけだ。これは廃道好きとしては一度は行っておきたいところで、実際廃道マニアの間ではこの廃道区間はつとに有名。何しろ当時の1級国道として指定された道が机上の計画ではなくてそこに一応存在したわけだ。しかも群馬県側は、ほとんど登山道として一応通行可能となっている。
さらに注目して欲しいのが、明治国道時代の清水越新道が「馬車が通行できる道」として整備されているという点。すなわち、基本的に急勾配は無いということで、これは怠け気味なぬたりのリハビリにもってこいではなかろうか、という思惑と結びついたわけだ。そこで今冬の探索の小手調べとして、まだ残暑残る夏の上州最北部へと足を向けたわけである。(つづく)