フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

Weird

2010年04月01日 18時35分33秒 | つぶやき
今は「嘔吐の時代である」と、90年代初めにある評論家が言っていた。怒りではなく嘔吐の時代であると。怒りほど明確な対象物もない取り留めなき嫌悪感は、何かを破壊することに行き着かず、その分だけ苛立たしくも、しかし拒絶するに至るという話だ。そして今や私たちは、皆が皆過食症的に生きなければならない。食べ物にせよ情報にせよ、もうウンザリするほどオーバーフローで、むしろ如何にそれを拒み、切り捨ててゆくかが、毎日の生活に最も必要な判断となっている。そしてそんな生活の中私たちが覚えてしまったのは、飲み込めない苦しみと吐き出す快感。矛盾した肉体の起こす軋みである。しかし…この世でもっとも正直なのは筋肉そのものである。感覚は容易に麻痺してしまう。でも、筋肉の軋みや痙りだけが、このまやかしとごまかしの世界の中で、当たり前の真実を指し示している。不要なものは受け付けないのだ。有害なものは、徹底排除を敢行するのだ。内臓を含めた筋肉が、自らを絞り出すようにしてまで。だが、その過食症的状態は食べ物だけの話ではない。情報と情報のやり取り、コミュニケーションにおいてもその苦しみや快感は適用される。いまや、コトバも情報も、その溢れる食物同様に、無責任に垂れ流されてゴミ箱ゆきだ。飲みすぎたアルコールを毒素として体外に吐き出すように多くの言葉は吐き捨てられ、膨大で過大な情報はその意味も飲み込みきれないまま、「賞味期限切れにつき廃棄」される。そうしてテキストの吐瀉物と生ゴミにまみれることで、私たちはようやく生きてゆく・・・


上記は1998年に発売された「serial experiments Lain」のDVDに書いてあった説明文の一部。
こう考えると、ぬたりのブログも吐瀉物の一形態なのかなあ、と思う。
ぬたりは最近はテレビをほとんど見ないし、仲間内のほとんどがやっているmixiアプリもやらない。なんとも興味がわかないんだよなあ、と漠然とは感じていたけれども、これはぬたりの情報を受け付ける能力がもう限界で、正直な筋肉が無意識的に新たな情報を受け入れるのを拒絶しているのかも知れないね。
情報と言うことであれば、毎日開くネットに溢れている。ブログの関係上、ブラウザを開くとgooのトップが表示されるようになっているが、一番目立つところにはその日のニュースが表示されている。mixiにもニュースが表示され、携帯を開けばニュースサービスが黙っていても表示される。
gooのニュースと携帯のニュースは、ぬたりがムカデのごとく嫌う「朝○新聞」がソースの場合が多く、mixiニュースに至ってはゴキブリのごとく嫌う「毎○新聞」と蛆虫のごとく嫌う妄想憶測誌(「サ○ゾー」とか「夕刊○ジ」とか「ビ○ネスメ○ィア誠」とか)が溢れてるのでほとんど読まないようにしているんだけども、それでも眼には入ってきますし。

多分、眼に入るだけで、ぬたりの処理能力をオーバーしちゃってるんじゃないかな。

これを飲み込もうとすれば、多分ぬたりは人前で吐瀉物を撒き散らす形になるだろう。「愚痴」という形で。
そうなった場合、おそらくこのブログは、色々なニュースに対するぬたりの「意見という名の愚痴」を吐瀉する場になるだろう。
それはそれでブログの1つの形ではあるんだろう。自分が吐瀉する隣で誰かが吐瀉をしてれば、「おやおやあなたも」と親近感を持ってくれる場合もあるのかもしれない。
が、端から見れば「醜い行為」であることには変わりない。

この考えは、自分の行っている業務内容が否定的に報道された過去の経験の影響があるだろう。ぬたりは内容を詳細に知っているから、一見「おかしい」とされることにもきちんと理由があることを知っている。だが報道はそこまで踏まえた上での取り扱いは行わない。
これは意図的にいわば偏向報道をしている、と言いたいわけではなく、様々な話題を取り扱う報道の、やむを得ざることだと思う。全ての事柄を詳細に分かってから取り扱うなど事実上不可能だし、そんな取材をしていたら時間がいくらあっても足らない。ニュース番組の時間は、発刊の時間は、待ってはくれない。だから、実際の細かい状況を踏まえて事に当たるこちらの状況を分かれ、というのは、実は無理に近い注文だと言える。
翻って考えてみよう。日々様々な情報がぬたりの元に流れ込んでくる。だが、ぬたりの知識など知れたもの。ぬたりが細かい状況の分かることなど、世の中のことのほんの砂粒1つのことでしかない。

そんな状況で、どうして細かい状況が分かりもしない事柄について、偉そうに語ることが出来ようか。

最初に「ぬたりのブログは吐瀉物の一形態」と書いた。どうして上記のことが考えにありながらブログを書いているか。
人の面前で、吐瀉物を撒き散らす。これははっきり醜いことである。だが、後に誰かに「いやあ、今日飲み過ぎて吐いちゃったよ」と話すとしたらどうだろうか。当然眉をしかめる人もいるだろうが、笑い話としてまだ聞くことが出来ないだろうか。
ぬたりは、かなり性格がねじくれ曲がっていて、巷で言う「偏屈」であるという自覚がある。また、他人と感覚がズレているという自覚もある。そんなであるから人との衝突というのは程度の大小はあれ日常茶飯事であるし、当然吐瀉物を吐くことは日常ではかなり多い。
だが、吐く場所は多少は気を遣っているつもりだし、やむを得ずブログをその場にするにしても、そこになにがしかの手を加えて、基本軽く(出来れば笑える形で)読めるスタンスにはしているつもり。
そんなバカな、お前のブログは汚い汚物だ、と言われるかも知れないが、その場合、ぬたりが思っていることをそのまま書いたらもっと汚くなるぞ、と言っておく。

いずれにせよ、アクセス解析なんか必要としないくらいの「ネット廃村」を自認する当ブログの話。何を書いても読む人は少ないのだけどもね。
だけども、時折は自分を見据えてこういう思考をしておかないと暴走しかねないからね、私は。きちんと自己分析しろよ俺、と言うことです。

ま、今日はエイプリルフールだしー。
コメント (2)
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