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フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

ステランティスみたいな感じじゃないの?

2024年12月27日 19時43分05秒 | 日記
焦点:日産との統合、ホンダから漏れる本音 幾重のハードル(←リンク先はヤフー)

うーん、これ、ね…。
ま、極論を言うならぬたりにとってはどうでも良いことにはなる。ぬたりはかつて日本の自動車メーカーの中ではホンダが1番好きで日産が一番嫌いだったので、当時ならショックもあったろうけどもね。でも(今のところ)最後に買ったホンダ車がダメダメだったのと、F1に出たり辞めたりを繰り返す姿勢に「なんだかなあ」と思っていたら今では好きでもなんでもなくなった。まあ日産嫌いは今もだけど。
このため「どうでもいい会社」と「嫌いな会社」の合併となれば別にぬたりの生活に影響は無い。それでも人生で最も買って良かった車の一つが「インテグラタイプR(96スペック)※」であることは間違いなく、多少の心の動きはある。
合併に関しては、日産側は経営危機が表面化していて、ちょっとネットを叩けば日産のダメダメニュースは溢れてはいる。一方のホンダはそんなに暗いニュースはないとは言え現状ではあんまり良い先行きでも無い。ハイブリッドはトヨタに追いつけ追い越せと頑張ったけどいつまで経ってもトヨタとの差は埋まらないし、じゃあ純粋なバッテリー式電気自動車(BEV)で勝負、と思ったらeは全然売れずに日本では販売終了。世界的にもBEVは中国勢に席巻されてる。軽自動車は好調じゃないかと言われるかもしれないが、軽自動車はしょせん日本独自の企画で世界的に見れば市場が小さくて大勢に影響を与えにくい。しかも性格的に1台あたりの利幅が低く、あんまり美味しい商売でもない。ホンダは独立してやっていくと言うのは昔からの方針で、同業他社とのグループ化はあんまりやってこなかったけど今はそんなこと言ってられないんでしょうね。多分ぬたりの想像以上に今の業界生き残るのは難しいんだと思う。
現時点では決まったことは何一つないらしく、あくまで「これから協議していく」というだけで破談の可能性だって十分にある。さらには「合併」という話の印象だけですぐに「車名は?」とか「GTRにタイプRが?」とかと、もうホントどうしようもないコメントが溢れており、なんなら自動車雑誌あたりも頭悪くそんな記事を垂れ流しているが、、あくまでも「持ち株会社化」であり、それは要するにどっちのブランドも維持する、ということとイコールでもある。もちろんそれぞれある程度の技術供与はあろうが、例えばフィットが日産のディーラーで買えるようになるとかそんなことはまずない。だからユーザー側にとっては合併しようがしまいが大きな影響は無いと思うな。たとえば表題のステランティスは、クライスラー、フィアット、プジョー、シトロエン等々のブランドを擁する巨大メーカーだが、表面上それぞれのブランドの独立性は維持されている。車詳しくない人には、フィアット500とジープラングラーを指さして、あれ同じ会社の車だよと言っても信じてもらえないんじゃなかろうか?
もちろん細かい点は変わってくるはずで、例えば軽自動車もNMKVとホンダ両方で新規開発していても無駄。バッジを替えるだけにするのかそれともベースだけ統一して、あとは各社でオリジナリティを出すのかは分からない。ただ前述のように軽自動車は日本独自の企画なので世界的に多くの販売を見込めず、開発費もあんまりかけられないという事実を考えるとあんまり各ブランド独自の動きが出来るとも思えないが。
ともあれ、たくさんの社員さんがいるし関連会社の数も多い。それぞれの会社のユーザーもたくさんいるわけだから、出来うる限り多くの人がハッピーになれる結論を出してほしいと対岸にいるぬたりは思います。今のところ両ブランドの車を買う感じではないので。


ぬたりが買って良かったと心から思う車はインテグラタイプRとBMWミニコンバーチブルクーパーS(MT)。どちらも「この車でなければ到達できない世界」があり、今でも思い出すし手放したことを時折後悔する。ちなみにどちらも初代モデルを購入しており、荒削りな部分も多く自動車評論家等からは貶される要素となったが、それ故じゃじゃ馬感覚で乗る楽しさがあった。モデルチェンジでこれらの点は解消されていき、走りはどんどん洗練され乗りやすくなるなどそれこそ評論家が褒めるような車になっていったが、それなのにどんどん売り上げ台数を落としていったのは皮肉と言うか何と言うか。なお、令和の世の中ではどちらも生産は終了している。まあ、今の世の中に受ける車でもないし。
それでもインテRのエンジンは本当にすごくて、レッドゾーンまで何のストレスもなく吹き上がるエンジン回転と、VTEC動作時の適度に暴力的な加速感はホントにオトコノコにとっては夢の感覚だった。200万円台の市販車であんな経験出来たのはホント幸せだった。もう絶対に二度と出来ない経験だろうね。
・・・なお、当時のホンダ車は高回転は気持ちいいけど低回転時はパワーもトルクもスッカスカとか言ってはいけませんよ。
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古いものは残るか残らないかではなく「残したいという気持ちが大事」

2024年12月07日 11時21分52秒 | 日記
さてさて、昨今のネタは富山に行ったり沼田の古道を見たりとインドアが基本のぬたりとしては珍しく出かけるネタが連続したわけだが。
別にネタを取っていたわけでなく実際事柄は結構連続していたわけだが、これはとりもなおさずぬたりが長期休暇を取ったからである。別に仕事を投げ出したわけではなく、うちの会社は勤続30年で5日の休暇がもらえるのよね。それを利用したわけ。
5日もあればそら色々出来るし海外旅行だって出来る。そうではなくて細々とした外出で5日間を過ごした理由は現在ぬたりは洗うが如き赤貧でどうにもなんなかったから。旅行って金がかかるのよねえ。
そんな感じで金のかからない長期休暇を満喫していたわけで、それゆえ富山の図書館をハシゴしたり、十八坂七曲の廃道探索なんて言う、現地に行きさえすればタダで楽しめることをしたりしたわけだが、この日はもう一つ金のかからないことをしている。石碑の拓本である。
十八坂を短絡する道として開通したのが現在の綾戸渓谷を通る道で、ここのトンネルの脇に今でも石碑があるのは過去に述べた。この拓本を取りに行ったのだ。
その時にも述べたが、現在この付近では綾戸渓谷を迂回するバイパス工事が進行している。トンネル2本と相当な規模になる橋を2本含む大工事であり、まだ(2024年12月現在)トンネルには手がついていないが着々と工事は進んでいる。
そしてこの工事がなぜ進んでいるかと言えば、綾戸渓谷の落石、落盤を避けるためであり、工事後そんな危険地帯をそのまま道路として使用するのか? と考えればこの経路の廃止も十分に考えられる状況。そして現在お世辞にも顧みられているとは言えない石碑がどうなるか、と考えれば、そのまま立ち入り禁止区域に取り残される公算があると考えられる。何か形跡を残すには今のうちにやっておかなければならないので拓本を取ろうと思い立ったわけだ。
そして落石覆いの外で落石に怯えながら、狭い足場と水面までの高度差におののきながら、必死で取った拓本がこちらである。

・・・うん、みんなの言いたいことはよく分かる。出来があんまりですよね。拓本の教科書に載っている失敗例よりも出来が悪い
そもそもぬたりは拓本を趣味としていないのでスキルがないのはしょうがないにしても、やはり一度で取るには石碑が大きすぎた。最初に水で石碑に用紙を吸着させるのだがグズグズしてると乾いて剥がれてくるし渓谷は風の流れもあるのでそれを助長して、とても悠長に出来を優先していられなかった。文字の部分に墨を一通り叩くのが精一杯。作業場所も狭くちょっと拓本かじった程度の人間が手を出していいシロモノではなかったですね。
今回は大きな紙に一度にやろうとしたからうまくいかなかったわけで、小さい紙で分割してやっていけばもっとうまくいくだろうとは思ったのだけど、さすがにもう勘弁してほしいというのが本音。拓本を行なうにはあまりに条件が悪すぎる。出来は悪いけどとりあえず拓本が取れたことに満足しておこう。
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微妙な清水国道つながりということで

2024年11月29日 21時52分15秒 | 日記
ちょっと前に、群馬県の渋川市と沼田市の境界あたりにある綾戸隧道の話をした。
ここは地形が険しく江戸時代後期までは道を通すことが出来ず、江戸時代末期に隧道が掘られて初めて人の往来が可能となったわけだが、それ以前は峠を越すような形でここを避けていた。峠は十八坂と呼ばれて難所として知られていた。道の歴史は往来の歴史。そして往来の歴史はとても古いわけで、そのことを調べていると芋づる式に気になることは増える。本来は隧道のことを調べていたのに気がつけば隧道が出来る前の道についても気になってくるわけだ。
江戸時代までの古道と言える十八坂は、完全に同じ所を通っているわけではないが現在も車で通行が可能である。林道桜木線と言われる道がそれで、綾戸渓谷を大きく迂回する形で今でも道は通っている。まあ、舗装はされているが狭い林道なので使う人はほとんどいないが。回り道だし。
ただし、山を越えてから沼田市側の下りてくるルートの一部は現在ほぼ使われていない。現在の沼田市岩本町、岩本駅の近くに下りてくるのだが、例えばグーグルマップや道路地図のデファクトスタンダード「マップル」には道の記載はない。かなりな標高差を一気に克服する部分なので、どうやら現在は顧みられていない様子。
では道がなくなったかと言えば完全には潰えていない。かの国土地理院の地理院地図には破線ながらも記載が残っている。地理院地図は特に地方の田舎の利用頻度の低い道は現実に即していないこともあるので、今でも通行可能な道があることとイコールではないのだが、少なくともそこに道があるという事を確認した人物がここ数十年の間にいたことは確実。これは一度辿ってみたいな、と考えたわけである。

・・・のだが、実はこの地理院地図の記載を発見するきっかけになった地図がちょっと問題。
その名も「群馬県クマ出没マップ」である。
地理院地図の情報を元にしたのか、件のマップにも十七峠は書かれていたのだが、そのすぐ近くにクマの出没情報はちゃんと載っていたりしたんだよねえ。
こんな所の人があんまり入らないような里山に突っ込んでいって大丈夫かしら? しかも一人で、

そしてこんな藪に突っ込めと?(つづく)
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ここ行きたいけど絶対無理

2024年11月27日 20時26分25秒 | 日記

「山と渓谷」である。
それにしてもまあ、山登りを題材とするこの雑誌も息が長い。アラフィフぬたりが子供の頃には既に山登り趣味の人には広く受け入れられていた雑誌だったと思う。令和の時代も登山趣味の方がまず読む雑誌として君臨している。
まあ、登山という趣味もある意味間口が広がったと思う。例えば有名な上高地なんかも、かつてはたどり着くのも大変だったが一般車通行止め措置や大規模駐車場の整備で、有名な河童橋なんて今や誰でも気軽に行ける。まあ駐車場代とバス代で結構お金がかかるようになった部分はあるにせよ、逆に言えばお金さえ払えば気軽に行ける場所は格段に増えた。例えばぬたりの地元で言えば、尾瀬なんかも昔に比べれば大規模駐車場が整備されて、昔に比べて遙かに行きやすくなっている。まあ駐車場代と登山口までの交通費(かなり遠い)がかかるようにはなったにせよ。でも「登山道の整備」と言う点では日本は今でもあまり褒められたもんではないそうで、じゃあ河童橋の奥の北アルプス登ろう、となると難易度は昔と変わらず舐めると痛い目見る(下手したら命がなくなる)のは昔と変わらないわけだが。
ともあれ、登山趣味の方必見の雑誌、とも言えるのが「山と渓谷」なわけだが、ことぬたりは登山には興味は無い。山道を歩こうもんなら5分とかからずに「上り坂なんて大っ嫌いだ」と呪詛でも吐く勢いで口走れる自信はある。ではなぜ買ったかと言えばこの記事が読みたかったのね。

清水国道の記事である。
現在では国道291号線の群馬県と新潟県の県境部分がそれに当たる。一般車両は通行ができず道路地図等でも国道の表記が途絶えている(いわゆる点線国道)のだが、計画のみで工事されていないとかではなく、一度は馬車が通れる規模で道路は整備され、そこが国道として指定され続けている。極端な言い方をすれば今でも全線道はある。車はおろか徒歩ですら辿るのは難しいが。
清水国道が開通したのは明治8年。開通と同時に国道指定されて、この指定が現在でも受け継がれて生きているわけだが、馬車通行が可能だったのはせいぜい半年程度と言われ、以降は国道として機能は出来ていない。また馬車通行を念頭に置いた道は、勾配を緩くするため峠部分は迂回に次ぐ迂回で徒歩道としても使い物にならず、現在清水峠を越える登山道としても大部分はメインルートから外れている。
メインルートから外れているとは言え、群馬県側はほとんどが登山道として現在も一応活用されているが(崩落等もあり慣れている人向け)、新潟県側は現在では一部を除いて登山道としても活用されていない。
しかし明治にうち捨てられたこの道が、現在もその跡を山中に残している。例えばグーグルマップの航空写真にも道の跡がはっきり映っている、これをアップした日現在で最も分かりやすいであろう場所のリンクも貼っておくが、山肌をうねるように伸びる筋がお分かりになるだろうか? 航空写真見るのも多少の慣れが必要なんだけど。
清水国道は当時の一大国家プロジェクトであり、失敗に終わったこともあっていまだに色々語り継がれる存在で、道路マニアの間でも実に有名。ただし、清水峠の厳しい地形と自然環境が生半可な体力の道マニアを寄せ付けず、かといって体力はある登山趣味の方だとわざわざ廃道を辿る意味がないから、微妙に辿る人を選んでしまって全線踏破の記録は多分片手で数えられるほどしかない。
その白眉と言えるのが道路サイト「山さ行がねが」であり、山と渓谷の記事でも制覇の第一人者としてサイトの管理人、ヨッキれんこと平沼義之氏の名前が挙がっている。ぬたりはもちろん「山行が」の愛読者であり、群馬県在住のぬたりにとっては「一応」地元とも言える清水峠の記事は何回も読んだ。まあ探索部分は新潟県側なんだが。
正直な話をすれば「山行が」の微に入り細を穿つ記述に比べ、雑誌の記事では臨場感や詳細は今ひとつ。写真の撮影箇所についても正確には分からない。この点では新たに得られる情報には乏しいんだけど、雑誌は何よりも見やすいという利点がある。文章も分かりやすくまとめられていて読みやすく、雑誌をわざわざ買ってまで読む価値は十分にあった。
それにしても記事書いた方は道もない山野を巡るのが好きな方で、同行人も大学の探検部という割とガチな登山趣味の方々なのに、その人達ですら辿るのが嫌になったという「現役国道(既に述べたが清水国道は開通した道を指定しています)」ってのもどんなもんだという感じです。
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ルーツを巡る調査旅 考察編

2024年11月24日 16時41分03秒 | 日記

島地集落にて撮影

さて、今回富山に行ったことにより分かったことをもとに、ここからは推測になる。

ぬたりの祖父の祖父、清三郎の戸籍が編纂されたのが明治5年でこの年が日本の戸籍創設の年であることは既に述べた。すなわちこれは今のように転入転出の届け出を元に編纂されたものではないんじゃなかろうか。明治5年当時戸籍を作れと命令を受けた役場がどうするかと言えば、そら当人に聞き取りを行なったんではなかろうかと思う。その際に本人が、越中国嶋地村の「よしだひこへい」の次男出身だ言えばそれはその通りに記載されるだろう。明治の初めに群馬の片田舎の村役場が富山の片田舎の村役場にわざわざ確認を取ったかと考えると、ちょっとどうかと思う。
要するに調査の元になった戸籍ですら疑う気になればいくらでも疑えるんである。ただいくらなんでも群馬の片田舎に住む人間が富山県の山奥の集落である島地を意味もなく知っているとも考えにくい。実際群馬でのほほんと暮らすぬたりはそんな集落知りもしなかった。だから何らかの縁があったのは確実ではある。
では戸籍をできるだけ疑わずに話を美味く落とす手はないかと考えるに、「好田」という姓のみを疑えば案外話はうまくいく。
「好田」は「よしだ」「こうだ」「すきだ」等々と読める。そして「よしだ」となれば「吉田」と書くのが現代の日本ではポピュラーである。
そして吉田姓は島地に存在していた。また地区センターの職員さんによると、吉田は地区ではそこそこいる姓とのことだ。先の「大長谷郷土史」記載の島地集落の世帯にも2件ほど吉田さんは確認できる。
もうここまでくれば現時点で信憑性の高い結論と言っていいのではないだろうか?
ぬたりの祖父の祖父、清三郎は越中国婦負郡嶋地村(現富山県富山市八尾町島地)出身で、旧姓は吉田清三郎。父親の名前は吉田彦平で明治初期には既に亡くなっていた・・・可能性が高い。
次男であるのに清「三郎」なのはずっと引っかかっていたが、大長谷郷土史に記載の2件の吉田さんちの明治初期の当主がいずれも「○次郎」であるので、ことによったらその弟で次男で三郎というのもありうるのかとは思う。
すなわち、「大長谷郷土史」によると明治初期に吉田姓の方が住んでいたと記載のあるこのあたりこのあたりが、明治初期のぬたりのルーツである可能性が高い、と言うのが現時点でぬたりがたどり着いた結論になる。

富山の片田舎から群馬の片田舎に来たのはどういう縁か、と言うところに関しては全くの不明。ただし島地は自然環境的にお世辞にも住みやすい地域ではない。山村地域の口減らしなんてのは珍しい話でもないからそういうことで巡り巡って、という感じなのかな、というのは100%ぬたりの想像。島地は、それまで狭く険しい谷筋の国道を延々走ってたどり着いたとは思えないほどの小平野で、たどり着いた時には大げさかもしれないが楽園か桃源郷かのように思えたりもする。だが流石に広大な平地ではないから生産量は多くなさそう。

以上がぬたりさんが自分のルーツを辿る旅の一応の終着点となる。島地地区はなんだかんだで1時間以上ぶらぶらと散歩したが、かつて大長谷村の中心地であった島地地区も今や定住人口は数えるほど。11月の晴れた日に過ごす分にはのどかないい場所ではあり、川の流れも清らかで心地よいのだが、もうしばらくすれば大雪に閉ざされる。ちょっと買い物に出るにしても集落外の道はどこに向かっても車ではすれ違いすら困難な狭い道であり、住むとなればそれなりな困難が伴うことは想像に難くない場所ではありました。

最後になるが、島地集落を通るのは国道であり、国道471号と472号の重複区間となっている。その狭さ険しさは(特に有名なのは山を越えた岐阜県側とは申せ)「酷道」として比較的有名である。
そんな場所出身の祖先を持つあたり、ぬたりが廃道とかにも好奇の目を向けることはDNAレベルで刻まれてんのかな? などと思うアラフィフの秋でしたとさ。
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これ阿吽なんですかね?

2024年11月17日 09時29分00秒 | 日記




なかなかに愛嬌のある狛犬さんです。
とは言えここは昔の街道の有数の難所の入り口にある神社で、道中安全の願いを込める場所としては割とガチではあります。
ちなみに今は廃道状態でして、そんなとこに突っ込む私はそらもう真摯に手を合わせていただきましたわ。

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市販品ってやっぱりすごいよ

2024年11月12日 17時17分00秒 | 日記


ご存知エスビーの赤缶であるが、今日はこれでカレーを作ろうと思ってやってみたが、市販のルーに慣れてる人間にはまあ大変でしたわ。市販のルーってほんとすげえんだな。楽だし美味しいし。今回はイマイチのものしかできなかった。
とは言えいずれリベンジしてみたい。目指すは新潟のバスセンターのカレーだ。
いつか食べてみたいんだけど今や時間帯によっては大行列なんだもん。
再現できるならぜひそうしたいわ。ルーだとあの味は出ないんだよね。

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器用なのか不器用なのか

2024年11月11日 08時00分00秒 | 日記


2眼のコンパクトカメラで撮影した時によくある指の映り込み。
これをスマホのカメラでやっちゃうってのは我ながらどういう構え方してたんでしょうな。

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貧乏金なし

2024年11月04日 19時46分00秒 | 日記




これらの写真が何かといえば、ぬたりんちが今洗うが如き赤貧である元凶ね。
先日落雷にてこれらの器具(1枚目は室外機の基盤)がオシャカになり先日修理代を払ったからなのね。
保険会社の請求に必要になるかもしれないから写真撮っておいた方が良いですよ、と修理のおじさんに言われて撮ったわ。まあ、結果的にはいらなかったが。
そのうち保険金が払われるようではあるんだが、今はホント鼻血も出ねえわ。

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とりとめのない休日の1日

2024年10月27日 09時49分00秒 | 日記
個人的な調べ物していたがネットには情報がほとんどなく、藁にもすがる思いで調べていた地域の行政センターにメールで問い合わせてみた。
それはそれは体操丁寧な返事が届きとても恐縮する。
とは言え合併も進んだ今の時代、職員さんにも情報はなかったが、古い資料なら、と調べて一冊の本を紹介していただいた。
古本屋で調べたらいちまんいっせんえんもして腰を抜かす。
うーん、やはり郷土資料は部数少ないから高いなあ…。どうしようこれ?
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