日本帰還
十一月中旬日本へ帰還の命令が出た。
部隊に戻り帰還のための準備を始めた。
武器は持たず丸腰の兵隊達は、米、携帯食糧を背嚢に詰め込んで、
北京行きの鉄道に乗り込んだ。
京漢鉄道はまだ日本軍が沿線警備をしていた。
汽車が発車してすぐ鉄橋が破壊されていて船で渡ることになった。
人員だけで無く食料品も多く船で渡った。
汽車はのろのろと走ったり止まったりで、
途中の駅では、交換、交換の声が響いていたが、
交換する物は何も無くなっていた。
三日位かかって北京から天津に着いた。
天津港は、帰国待機用の大型のテントがいくつも置いてある。
ここで乗船を待つことになった。
暫くして アメリカ軍兵舎の掃除当番が回ってきた。
広い講堂の中、携帯のベットが置いてある床を雑巾で掃除をした。
見上げるようなアメリカ兵を始めて身近にみて、
敗戦の実感をひしひしと思った。
一週間ぐらいして乗船の順番がやってきた。
食糧、書類写真は持ち込み禁止で、時計、貴金属は取り上げられるので
ここに置いてゆく。
山のような米の山、時計の山が今でも記憶にのこっている。
十二月四日アメリカ軍のリバテイ船に乗船、佐世保港に向かって出港した。
五日かかって佐世保港に着いた。
日本上陸の第一歩は頭からDDTを振りかけられ真っ白になった。
佐世保の宿泊所で復員式があって正式に復員した。
窓も無い満員の汽車に乗り込み、焼け落ちた駅をいくつも乗り変えて、
東京の我が家に十二月十三日に帰り着いた。
終り