仏誌のマホメッド戯画化に対して、近ごろこんな批判が多い。「異文化を尊重する節度」という論点から、マホメッド偶像崇拝を排するイスラム教徒を尊重していないことになるから誤りないしは行きすぎの面があるのではないかと。さて、僕はこの論理はおかしいと思う。日本知識人らしい誤りではないかとも。
西洋では、政治とキリスト教との近代以降長い摩擦の歴史から、政教分離の原則が生まれた。信教の自由を尊重するためにも、政治と宗教は相互に介入し合わないという約束、原則のはずだ。この決まりができるまでに、十字軍戦争なども含めてどれだけの命と血涙が供されたことだったか。因みに近代日本は宗教心が薄かったようで、政教分離受け入れに抵抗感は少なかったのではないか。
他方イスラム教国家に政教分離という論理が存在するだろうか。シャリアという宗教原則が法制、準法制、「公序良俗」に多く入り込んでいる。一例を挙げれば、女性に教育は不要というような「公序良俗」も多くあるはずだ。そういう相手と政治や経済などの取引をする場合に、政教分離は無視されることも多いはずである。
さて、百歩譲ってイスラム国家は政教分離をしないけど、そういう相手にもやはり「異文化を尊重する節度」を持って臨むべきであるということになるのであろうか。これは日本人らしい誤りではないかと言いたい。日本人らしい「人間関係だけ論」の謝った適応であり、稚拙な論理とさえ思うのだが、どうだろう。
そもそも、コーラン114章の規則をほとんど体現したくない日本人には多いはずの政教分離論者が現在のイスラム国家に住めるのかと考えてみたらよい。先ず、村八分というか、そんな目に遭うのではないか。こうして、政教分離論者ならば、具体的な政治世界にコーランの言葉を持ち込んでくる相手と論争になる場合は多いだろうし、そうなったらマホメッドにもその神の言葉に対しても、文句の一つも必ず言いたくなる事であろうに。それがシャルリであって、これも言論の自由と、僕は思うのである。
そもそも言論の自由という思想そのものが、政教分離が生まれてからの近代民主主義国家の産物ではなかったか。そしてこの思想には、「どんな神も関係なく人間個人が国家の主権者として尊重される」という思想が入っているはずだ。そしてこういう国家、政治は、政教分離を認めないイスラム原理主義とはどうしても相容れないところがあると思う。政治世界で何も具体的対立が出されていない時に相手の宗教を侮辱するなどは論外であって、それは別問題である。しかしながら、イスラム国家にも世俗主義と原理主義との大別があるようで、シャルリが戯画化せざるをえなかったイスラム国は世俗主義ならぬ政教一致原理主義の典型なのであろう。素人考えだが、世俗主義国家の方が近代国家により近いということなのでもあろう。政教一致原理主義を言論で批判しようとすれば、当然マホメッド批判も出てくるはずだ。
西洋では、政治とキリスト教との近代以降長い摩擦の歴史から、政教分離の原則が生まれた。信教の自由を尊重するためにも、政治と宗教は相互に介入し合わないという約束、原則のはずだ。この決まりができるまでに、十字軍戦争なども含めてどれだけの命と血涙が供されたことだったか。因みに近代日本は宗教心が薄かったようで、政教分離受け入れに抵抗感は少なかったのではないか。
他方イスラム教国家に政教分離という論理が存在するだろうか。シャリアという宗教原則が法制、準法制、「公序良俗」に多く入り込んでいる。一例を挙げれば、女性に教育は不要というような「公序良俗」も多くあるはずだ。そういう相手と政治や経済などの取引をする場合に、政教分離は無視されることも多いはずである。
さて、百歩譲ってイスラム国家は政教分離をしないけど、そういう相手にもやはり「異文化を尊重する節度」を持って臨むべきであるということになるのであろうか。これは日本人らしい誤りではないかと言いたい。日本人らしい「人間関係だけ論」の謝った適応であり、稚拙な論理とさえ思うのだが、どうだろう。
そもそも、コーラン114章の規則をほとんど体現したくない日本人には多いはずの政教分離論者が現在のイスラム国家に住めるのかと考えてみたらよい。先ず、村八分というか、そんな目に遭うのではないか。こうして、政教分離論者ならば、具体的な政治世界にコーランの言葉を持ち込んでくる相手と論争になる場合は多いだろうし、そうなったらマホメッドにもその神の言葉に対しても、文句の一つも必ず言いたくなる事であろうに。それがシャルリであって、これも言論の自由と、僕は思うのである。
そもそも言論の自由という思想そのものが、政教分離が生まれてからの近代民主主義国家の産物ではなかったか。そしてこの思想には、「どんな神も関係なく人間個人が国家の主権者として尊重される」という思想が入っているはずだ。そしてこういう国家、政治は、政教分離を認めないイスラム原理主義とはどうしても相容れないところがあると思う。政治世界で何も具体的対立が出されていない時に相手の宗教を侮辱するなどは論外であって、それは別問題である。しかしながら、イスラム国家にも世俗主義と原理主義との大別があるようで、シャルリが戯画化せざるをえなかったイスラム国は世俗主義ならぬ政教一致原理主義の典型なのであろう。素人考えだが、世俗主義国家の方が近代国家により近いということなのでもあろう。政教一致原理主義を言論で批判しようとすれば、当然マホメッド批判も出てくるはずだ。
日本軍でも、自衛隊と言えば、OKだし、
他人の拘りは、ネタになるけど、どこまでイジっていいのかな?
一、オランド大統領は格差是正を目指して富裕層への増税(所得税の最高税率を45%から75%にするなど)を公約として掲げているので、実行してもらえばよい。二、預言者の絵を描くのはやめる。これでフランスでのテロは減る。
文ちゃんらしい、暴走だね。
抽象的な論理って、より具体的な話よりも実は大切なことが多いと思う。守備領域が広く、その範囲のあらゆる事項を左右するから。一例。立憲主義という日本国憲法の柱があるが、これは日本国憲法の中で最も大切な根幹の論理の一つだと思う。ちなみに、政教分離とか言論の自由とかが無くなれば、テロはもっともっと増えますよ。そういう意味もあって、これらは大切なもの。例えフランスのテロが今だけ減ったとしても、こっちの方を放棄してはいけない。
名なしさん
政教分離に基づく政治側からの宗教側暴力への批判、そういう言論の自由主張の一つに対して、宗教家が反対するのは十分にありうることだろう。ぬしろ、治家の反論が欲しいね。
風刺はふつう抑圧された者のペンによるアゲインストだ。シャルリー・エブドはイスラムによって抑圧されていたのか。そうではあるまい。彼ら自身がブルジョア原理主義による啓蒙に名を借りた抑圧者だったのではないか。
そんな連中に唱和して、「私はシャルリー」などとお目出度いことをいっているから、しかも、オランドの好戦的なテロとの戦いなどに同調したりしているから、人質を盾にゆすられる破目になるのだ。
文ちゃんの論理はブルジョア原理主義で、所詮は安倍くんと同列なのだということを自分では気付いてもいないだけにお目出度くも滑稽だ。
イスラムは、そしてその原理主義は、ある意味、全き他者だ。だからこそ、それとの共生の道を必死になって考えなければならないのではないのか。それが21世紀の文明の課題ではないのか。
その時に、文ちゃんのようにブルジョア原理主義の一般論を振り回すだけでは、テロとの戦争を怒号し、その軍事的殲滅を図る連中と全く変わらないではないか。
安倍くんと一緒に、集団的自衛権を振りかざして、中東での軍事行動に参加するつもりのようにみえる。
こういう批判、「感じ方」を使った他者批判はまー、20世紀残りの四半期ころからこの日本にも流行っている。近代西欧哲学・文化批判、まとめてしまえば「人間中心主義」批判とやらの一つであることは確かなのだが、まーとにかく分かったようで分からない生煮えの概念であろう。
さて、最近の他文化尊重にも、エスニック重視でさえ、20世紀後半の西欧、フランスが大いに貢献していることに先ず触れておきたい。
つぎにこのこと。イスラム国を生んだのは、アメリカと、そのアメリカが嘘の理由を工作してまで無理無理起こしたイラク戦争参加有志国である。このことは、このブログの僕の論調からすれば当然の帰結。
ここにも書いてきたように「イラク戦争では50万人も殺され」て、人生がめちゃくちゃにされた人はさらに無数だろう。無数の「鬼」も生まれざるを得ない。そんな僕は、テロとの戦争など怒号するわけはない。上の記事がそう読めたとしたら、それは誤読という以上に曲解というもの。
以上、おしまい。
思ってしまますね。
二、憲法九条の真の意味=武力ゼロ。それでは尖閣や竹島や北方領土は日本領土でよい。その代わり、愛知県をロシア、韓国、中国で分割統治すると脅されたらどうするつもりなのでしょうか。国連に助けてもらいますか。中ロが拒否権発動しますね。国際社会が黙っていない? 愛知県が手に入るなら、少々の制裁は平気でしょう。結局英米頼りか……。
三、集団的自衛権の否定!?
万が一の朝鮮半島有事や台湾有事の際に、「在日米軍基地使用」を許してはいけません。阻止しないと「集団的自衛権行使を認める」ことになります。
君は、あのシャルリー・エブドの記事でイスラム教徒がどれほど屈辱的は思いをしているのかわかった上でこれを書いているのか。
君たちは、いいイスラム教徒と、悪いイスラム教徒を勝手に分離しているが、いいとされるイスラム教徒だって、シャルリー攻撃を内心では当然だと思っている。それを、「私たちは違います」と言わせているのは君たちの言外の圧力なのだということに気づきもしない。現にイスラムのモスクが各地で襲われてるではないか。
だいたいなぜイスラム国などに世界中の若者が集まるのかを考えたこともあるまい。これは、イスラム教徒によるレコンキスタなのだ。
中東や北アフリカの地図を見給え。定規で仕切ったように直線が目立つだろう。何故か。
これは、イギリス、フランス、ロシアが関わる西洋列強の帝国主義的植民地としてかつてのオスマン帝国がの蚕食された結果なのだ。そして、それを決定的にしたのは、第一次世界大戦中の1916年に締結された「サイクス・ピコ協定」といわれる密約なのだ。
ようするに君が尊ぶ西洋の論理はそのような血塗られた歴史によって作られてきたのだ。
それを一顧だにせず、「私はシャルリー」に唱和する君は、日本の戦争は相手に仕掛けられたものだ、侵略などはなかったと強弁する歴史修正主義者とどう違うのか。またそうした歴史観によってヘイトスピーチをまき散らす「在特」の連中とどう違うのだ。
もちろん、イスラム原理派の行為をすべて肯定するわけではない。容認出来ないことも数々ある。だからこそ、彼らとの対話の糸口を懸命になって探ってゆくのが現代の課題だといっているのだ。
それを文ちゃんのように、西洋ボケの頭脳で、「私はシャルリー」と踊っていたのでは、自分たちの過去を棚上げして、武力で殲滅と怒号するオバマやオランド、そして安倍くんと全く一緒ではないか。
君の上の言説を自分でもう一度読み返して見給え。それは西洋によるイスラム攻撃と軌を一にしているのではないのか。もっとも、西洋合理主義の価値観にどっぷり遣ってそれを内面化し、そのイデオロギーに曇った眼からしか現実を見ることができない君には無理な話かもしれないが。