「ぼくらの核武装論」(撃論ムック)という本を読んでいたら、巻頭に面白い論文が掲載されていた。「核思想の練磨、それが核保有の条件」というタイトルで、サブ・タイトルとして“核保有の準備には民衆政治の成熟が不可欠だが、日本列島人にはその資格がないと言わざるをえない゛、となっている。
最初に、論者は“核兵器はMDW(大量破壊兵器)であるから、それを製造・保有する国家(つまり国家とその政府には「民衆の成熟」が必要である”と説く。そして、“ 核武装の目的は「核抑止」”であり“広く言えば核の「最高度の平和利用」に当たる”(P14)と言う。
次いで、「独立核」(核所有を他国に依存しないこと)を持つかそれとも無防備を決め込むかについて「列島人の8割は後者を選んでおり、“平和主義を貫け」ということであるから恐れ入るしかない」(P16)と、ここでも核兵器のない世界を希求する日本人を罵倒する。
さらには、“21世紀の国際政治では必ずや核侵略戦争を起こす国があり、不利になったら“核兵器の使用に踏み切ることもありうべき、それくらいに人類とは不合理な代物なのだ”とみる見解に一理も二理もある”(P17)と、核戦争必至論を唱え、“核武装は一人前の国家の身出しなみととらえておくのがよいのではないか”(P17)とまで主張する。
そして、「民主制は核武装の資格」にはなりえない」との最終小見出し(P17)のもとに次のように述べている。
“・・・しかも、デモクラシー(民衆政治)はマスメディアの暴走によってマスクラシー(大衆政治)そしてオクロクラシー(衆愚政治)へと舞い上がっていく。民衆に「主権」などという野放図な権利を与えるからそうなるのだ。それが現代世界のまぎれもなき趨勢である。実際、トータル・ウオー(総力戦)という形で戦争が大量殺戮を伴うようになったことについては、デモクラシーの普及ということが大いに関係しているのである”(P17)として、民主主義を一気に否定する。
そして、最後に次のように締めくくっている。
“日本人には核武装する(政治必要も(技術的)能力もあるのだが、この列島人に精神はそれにふさわしい(文化的)資格を手にするにはあまりにも劣等過ぎる、と残念ながら認めざるしかあるまい(P17)”
ここでも、核兵器のない平和な世界を願う大多数の日本人を罵倒して終わっている。
(罵倒する言葉はまだいっぱいあるが、あまりにも多過ぎるので、一部をカットした)
この国民蔑視の上に成り立たせようとする理論は、このブログに登場する誰かさんにそっくりではないだろうか。
では、この上記の論者はいったい誰か。もうお分かりでしょう。「保守系」氏が心の底から敬愛する「西部 邁」氏(評論家 秀明大学学頭)なのです。
最初に、論者は“核兵器はMDW(大量破壊兵器)であるから、それを製造・保有する国家(つまり国家とその政府には「民衆の成熟」が必要である”と説く。そして、“ 核武装の目的は「核抑止」”であり“広く言えば核の「最高度の平和利用」に当たる”(P14)と言う。
次いで、「独立核」(核所有を他国に依存しないこと)を持つかそれとも無防備を決め込むかについて「列島人の8割は後者を選んでおり、“平和主義を貫け」ということであるから恐れ入るしかない」(P16)と、ここでも核兵器のない世界を希求する日本人を罵倒する。
さらには、“21世紀の国際政治では必ずや核侵略戦争を起こす国があり、不利になったら“核兵器の使用に踏み切ることもありうべき、それくらいに人類とは不合理な代物なのだ”とみる見解に一理も二理もある”(P17)と、核戦争必至論を唱え、“核武装は一人前の国家の身出しなみととらえておくのがよいのではないか”(P17)とまで主張する。
そして、「民主制は核武装の資格」にはなりえない」との最終小見出し(P17)のもとに次のように述べている。
“・・・しかも、デモクラシー(民衆政治)はマスメディアの暴走によってマスクラシー(大衆政治)そしてオクロクラシー(衆愚政治)へと舞い上がっていく。民衆に「主権」などという野放図な権利を与えるからそうなるのだ。それが現代世界のまぎれもなき趨勢である。実際、トータル・ウオー(総力戦)という形で戦争が大量殺戮を伴うようになったことについては、デモクラシーの普及ということが大いに関係しているのである”(P17)として、民主主義を一気に否定する。
そして、最後に次のように締めくくっている。
“日本人には核武装する(政治必要も(技術的)能力もあるのだが、この列島人に精神はそれにふさわしい(文化的)資格を手にするにはあまりにも劣等過ぎる、と残念ながら認めざるしかあるまい(P17)”
ここでも、核兵器のない平和な世界を願う大多数の日本人を罵倒して終わっている。
(罵倒する言葉はまだいっぱいあるが、あまりにも多過ぎるので、一部をカットした)
この国民蔑視の上に成り立たせようとする理論は、このブログに登場する誰かさんにそっくりではないだろうか。
では、この上記の論者はいったい誰か。もうお分かりでしょう。「保守系」氏が心の底から敬愛する「西部 邁」氏(評論家 秀明大学学頭)なのです。
●核武装が最高度の平和利用だ。
●総力戦による大量殺戮は民衆に主権を与えたから だ。
●日本が核武装する資格を持てないのは文化的に劣 等 だからだ。
などの主張は、お隣の将軍様と瓜二つではありませんか。お隣の国で将軍様のお相手でもしたらどうでしょう。
そういえば、この人他の右翼論客からも爪弾きされたようで、書店でも座談会くらいしか名前を見かけませんね。
衆愚だって見るところは見ているのですよ。
主権は頂きましたが、お説のように大量殺戮の戦争に直接には手を貸させませんでした。
まあそれ程文化的に劣等とも思えない程度に文化を支えてきました。
核ミサイルを針鼠のように日本海沿岸に並べるのが文化的なら60年そうしないように文化的な努力をしました。
一体西部氏の文化的とは何なのでしょう?
文化的であろうとなかろうと、結論では一致。
しかし、何度も言っているように、核は基本的に使えないのですが、しかし、相互性の問題だといっているのです。西部も核武装をしろとは言っていません。
核武装準備宣言をと・・言っているのです。戦後衆愚人は何をうろたえているのでしょうか?そんなに日本海岸に並べなくて良いのです。
残念ですが日本の核武装は、宣言までで、本格的には装備できないのです。そして戦後衆愚人さんは、文化的とは、どういう意味でしょうか。核は技術ですから文明です。文化ではありません。文化というなら、日本人が戦う意思、意欲など武士道の世界(精神)の事を言うのです。最後にへそ曲がりさん、核兵器は持つ事に意味があるのであって使用できないのです。
そこを貴方がよくわかっていないのです。
そうビクビクシない事です。まあお互い、即座に死ぬ事が出来るのは、核兵器でやられる事です。
銃剣では痛いですから・・。化学兵器も結構辛いものがありますから・・。
技術的には核武装可能でも、実際にはしていない国はけっこうあります。
と言って、それらの国が無防備を決め込んでいるかと言えば、必ずしもそうではないでしょう。
西部氏が他の「核武装していない国々」をどう見ているのか、興味がありますね。
核武装を議論すべきというのはともかく、「核武装準備宣言」とやらにどんな意味があるのでしょう?
ましてや、どうせ宣言だけで、実際に装備はできないと言うのなら‥
「はったり」にしても、少々情けなく感じるのは、僕だけですか?
アメリカやロシアは、どう思っているのか?
余り気持ちよくはないでしょう。
そのくらいの効果はかも。
銃剣では痛いですから・・。化学兵器も結構辛いものがありますから・・。」
ジョークというのは、触れたくない真実を笑いのオブラートに包んで語るものだと思いますが、保守系氏のこの一文は真実から遠いものです。
貴方は広島や長崎の写真集を見たことがありますか?原爆の詩集を読んだ事がありますか?被爆地の記念館を訪ねたことがありますか?被爆の語り部と話した事がありますか?
私はこの夏、名古屋市博物館で開かれた原爆絵画展を見にいきました、広島・長崎では何十万の人が即死した訳ではありません。
焼け爛れ垂れ下がった皮膚のまま水を求め苦しみながら死んでいったのです。痛いよー痛いよーと訴えながら母に看取られた子どもも数知れません。
そのあと 62年後の今でも原爆症で苦しみ続け死を迎えなければならない人も多いのです。
被爆は人類史の最も深い闇の部分です。軽々しく語るべきものではないと思います。
戦争を兵隊として戦った人は無口です。
老兵は語ることなし夏祭
新しい教科書に賛同する元軍人さんの
当時の階級と戦場体験は、どんなものですか?
私は長崎も広島にも行ってきました、ただ被爆された方とはお会いしていません。
少なくとも、広島の原爆資料館へは、三度も行きました。その時の怒りは、やはりアメリカへのものです。
更に、名古屋・東京への空爆による虐殺行為、私は、空爆の恐さを知りませんが、想像は出来ます。
被爆さん、軽々しく語っていません。何処がですか?
では被爆さんはその時の閃光と高熱の程度が理解できますか?私は想像の中で化学兵器より穏やか?に死ねると言っただけです。
被爆体験を何処の誰に語るのですか、アメリカ人・シナ人・イギリス人・ロシア人・北朝鮮人・フランス人
ですか、語った所でこれらの国は、原爆を放棄しません。するとなると北朝鮮くらいでしょうか?
「原爆に、恨み持つのは、遅かれし」では。