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掌編小説紹介  寄り添う   文科系

2023年10月24日 12時20分45秒 | 文芸作品
   寄り添う  S・Hさんの作品です

 ある日、私はM区役所の市民課の窓口で受け付けの仕事をしていた。それはもうじき正午になるという少し倦怠感の出る時刻であった。
「上を呼べ。お前では話にならん」
 窓口に来た市民のたわいもない質問からどんどん話が険悪になり、最終的にはこの役所の応対が気に食わないと窓口の向こう側から怒声がいきなり浴びせられた。
 当時私は新卒で働きだしてかれこれ三か月になったところで、そのお客に対して今まで職場で得た知識を総動員して丁寧に対応したつもりであった。私の案内が拙かったのか、あるいは私があまりにも若すぎて軽く見たのかとにかくお客はますますいきり立った。
 気のせいか、その怒声の中に微かな酒臭いいやな臭いを感じた。「上を呼べ」は窓口担当者の公務員には一番困ることであった。上というのは課長かまたは区役所の最高責任者、所長のことだからである。そんな偉い人が窓口に来るわけがない。このような場合、役人は上司を呼ばずにその場を手短かに収める話術を要求される。そもそもお客をそのように怒らせる時点で役人としての資質はゼロと判断される。短い役所勤めの間にそういうことを知っていた。
 このようにお客とのトラブルになった際には誰も助けに来てはくれない。この二人のトラブルは、職場の同僚にとっては吉本のお笑いを見る思いでじっと耳を澄ましている。お手並み拝見である。役所というところはそういう所である。
 私は背後に同僚や先輩の視線を感じながら額や脇の下に汗をいっぱいかいて、どうにか話を収めた。既に正午をとうに回っていた。
 その日の勤務明けの時間であった、私の隣の部署の課長がポンと私の肩をたたいた。
「どうだ、今から私の知っている店でいっぱいやらんかね?」
 でっぷりと太っていて目が澄んでいる。いつも親し気なほほえみを浮かべている、しかし私から見たら中年のおじさんである。隣の部署だし仕事の話もあまりしたこともなかったが、そのすがすがしい仕事ぶりに私は好感を持っていた。
 役所からしばらく歩いて、その課長の行きつけの飲み屋に入った。私はこの課長は本日の私の失態に付いて何か話してくれるのかと思った。小皿に入った酒のつまみを突っつきながら課長が何度もお猪口を私に傾けた。が、たわいのない世間話に終始した。内心私は怪訝に思った。
「一つ歌ってみるか」
 課長はマイクを持つと「北国の春」を歌い出した。酔いもあるのか気持ちよく歌い出した。その時突然私の両の頬に涙が伝わった。その日の緊張や、やせ我慢がその涙と共に消えてゆくのを感じた。
 あれからもう半世紀経つ。あの課長はその後どうなったか知らない。

 或る時、私は「グリーフの会」に参加した。伴侶や近親者を亡くした遺族同士が集まり、その悲しみや淋しさをしみじみと語る会である。
「どなたからでも、お好きなように話してください。ただし話したくない方はパスしてもかまいませんよ。お話される方の心に寄り添い、何故と質問などしなくてただただひたすらに黙って耳を傾けましょう」
 進行する者がそう言って一同が代わりばんこに語るのである。
 その時、ふとあの半世紀前の課長のマイクをにぎった爽やかな表情が私の心に浮かんだ。
 その人の心情に寄り添う。その司会者の言葉が五十年前のあの光景を引き出したのだ。
 人は本当に悲しい時、励ましの言葉はかえって空疎に聞こえる。ただただ黙ってじっとその人を見守る、じっと温かく見守る。それが本当の愛情ではないだろうか。
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